正直と善行のどちらをまず取るべきなのでしょうか
正直と善行のどちらをまず取るべきなのか悩んでいます。
まず、善行とは誰か自分以外の人のためになることをすることだと思っています。これは同時に、自分以外の人を傷つけることはしてはならないということだと思います。
しかし善なる本心のついてこない善行は偽善に過ぎず、結局は背後にある虚無的思考や悪い意図が露呈して失敗するから、まずは自分の思いに正直であり、正直な状態で自然と善行を行うようになるまで待つべきなのではないか、というふうに考えることがあります。
一方で同時に、自分が正直にあると暗く冷たく幼く醜く、共感に乏しい人間にしかならないので、嘘でも善行を行なって本心がそれについてくるのを待つべきなのではないか、というふうに考えることもあります。
共感に乏しい自分の正直な本心では、善行を行うことはできないと思うので、正直であると同時に善行を行うというのは考え難いです。
仏教について何も勉強しておらず、要領を得ないうえ何の文脈も踏まえていない駄文となってしまったかもしれませんが、宜しければお知恵をお貸しください。お坊さんが何を善行と考えるかについても、もし宜しければお教えいただければ幸いです。
学生。他の人への共感に乏しく、確固たる自我や意志も持っておらず、幼い。他の人との関わりが少なく、たまに関わる機会があるとひたすらに承認を求めたりしてしまう。他の人を尊重し、その痛みをわかって、その人が必要としていることをできるような人間でありたい。同時に、柔軟でありながら芯の通った自分を持った人間でありたい。
自分では他の人のためになる気がないのに、他の人が自分にとって都合のいいことをしてくれることを望んでしまう。 自分にとって都合の悪い状況になったとき、第一に環境や他の人への恨みが出てきてしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
第一摂律義戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒
もしそこに順番を付けるとしたら、まず最初は悪をしないことです。
悪とは、他人を傷付けないということではなく、悟りから遠ざかる行いのことです。
例えば、他人の悪口をネットに書き込みます。書かれた相手はきずつきます。それを見た他の関係ない人も不快になります。それだけではなく、実は、書いた自分自身も書いたその時、心が荒れています。そんな自分に気付きましょう。
悪口を書きたい!蔑みたい!それは正直さではありません。愚かさです。そのように正しく認識することが悪を離れるということです。
そして悪を離れた生活の中で、悪をすればそのたびに苦が生じる。悪を止めれば止めた分だけ苦が減ると学びましょう。
次に善を行いましょう。善とは、他人に尽くすことではなく、悟りに近付く行いです。
じゃあ悟りって何よ?と言うと、これは自分、あれは他人という垣根を取っ払うことです。
エレベーターに乗っています。誰かが入って来ました。ちょっと扉を押さえて入れてあげます。なんだかちょっぴり晴れやかな気持ちになりました。
こんな時、俺が俺がという自己中の心がナリを潜め、自分の中に入って来た誰かが満ち満ちているんです。
あんましデカいことをやろうとすると結果に責任が発生したりして重たくなります。だからこんな小さな親切心を大切にしましょう。
1つ善を行えば、1つ分の悟りです。自分は泥棒じゃないといくら念じても盗んだ瞬間泥棒になるように、自分で何とも思わなくとも仏様のように生きればその瞬間、自分が仏なんです。
最後に、繋がりをリスペクトして生きましょう。
この世界は原因と結果の網の目のような繋がりによって成り立っています。我々もまた、その網の目の1つです。
であるならば、私という結果に繋がる原因1つ1つを大切にすることでしか、自分を大切にすることはできません。
だから、本当に賢い生き方とは、まず他者のためを先にし、その他者のためが巡り巡って自分のために繋がっている世界観を持つことです。
雨が集まり川となり、大海に出て蒸発し、それが雲になってまた雨となるように、他者のためとも自分のためとも言えるものがずっとずっとずーーーっと続いているんです。
他者とは人に限りません。米の一粒、お茶の一杯。土地、草木、空気、石の一粒に至るまで。
これが楽に生きる道です。左手の掌に自分を乗せ、右手の掌に他者を乗せ、1つにする…合掌
偽善でもいい
大切なことはあなたが成長することです。
正直に生きればそれは成長につながるでしょう。
善い行いをすればそれも成長につながるでしょう。
ですから、どちらもできることから実践したらいいのですよ。
たしかに世の中には偽善的なものがありますが、100%偽善なのではなく、何%かは善が含まれていることもあると思いますよ。
わたしがハスノハに回答することも、何%か偽善が入っているかもしれません。
でも、立ち止まってはいけません。
一つづつ、一つづつ、できることから実践ですよ。
例えスタートが偽善でも、やがては善に変わることもあると思いますよ。
心身一如
拝読させて頂きました。
あなたが本心から善を行おうとするのならば自ずとついてくるのではないでしょうか?
あまりに頭でっかちに考えすぎてしまいますと善きことをしようとする心も行いも過ぎていってしまいます。
心と体は一如ですからね。
どうぞすすんで善き行いを為す様心掛けて下さいね。