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同じ失敗2回(3回?)してしまいました。

回答数回答 2
有り難し有り難し 28

個別指導塾の講師しています。
講師の人に渡さなければいけないファイルを、渡さずに帰ってきてしまいました。
前にも同じミスをしました。2回目です。似たようなことが他にも1度あり、3回目?かもしれません。
致命的なミスではないのですが、その講師の人に失礼だったと思います。
同じミスを繰り返さないようにするにはどうしたらいいでしょうか。また、同じような経験がある方いらっしゃったら、その後どうしたか教えてほしいです…。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仕組みを作らないと。

こんにちは。私も、全く同じではありませんが、「二度間違えた」ことがあります。その時は、「あぁ、しまった!もう俺のバカバカ」とか激しく自分を責めましたが、アッサリ再発しました。
はい、自分を責め、「深く反省」しても、人間それを忘れてしまうものです。なので、実際の行動として何かをし始めたらどうですか?
「渡す」がどのタイミングで起きるのか分かりませんが、毎日同じところにメモを書いておき(今日は2枚、とか今日は0まい、とか)、必ず同じタイミングで確認する。仕事場を出るときの靴箱の所で、とか。
ポイントは、「気持ちの問題」にしないことです。「仕組みの問題」、具体的に目で見て可能な対策を取るのが、よろしいと思います。
ところで、その方にはもう謝りましたか?忘れたことによる問題発生は防げました?ありは最小限に留められましたか?

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

慙愧心 

こんにちは。ニドアルコ・トハサン・ドアール丹下と申します。
私も昨日家を出てくるときにカギを持ってくるのを忘れてしまい第三次家の中に入れない事件が起こりました。
第一次 私がワイフのカギと自分のカギを両方持って行っちゃった
第二次 節分で鬼をやったら子供がリアルにビビッてカギをかけちゃった
第三次 
ワイフと2歳の子で出かけました。
ワイフが持っていれば大丈夫だと思ってしまったとです。
雪だったので幼稚園の子供のお迎えに車でいきました。ワイフは子供と幼稚園でしばらく遊んでいくというので私と2歳の子供で家に帰ることになりました。ところがカギを持っていたのはワイフです。家に入れなくなり車の中で待つことになりました。車のカギは電気式なのでエンジンを切らない限り運転は可能です。ところが2歳の娘が私の膝の上で遊んでいる時に車のエンジンをいじって切ってしまいさらなる窮地へ。家にも入れず車の中もどんどん冷えていく…。
時間がとまるとはこういうことなのだなぁと思いました。
「本当に困ること」は次回からのエネルギーになります。
失うことの恐怖心、ああ自分って駄目だなぁ~、こんな愚かしいことを二度とくり決してなるものか!という気持ちを活用しましょう。三度目だけど。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

具体的なアドバイスありがとうございます。
まだ謝れてないのですが、ファイル渡さなかったからといって仕事に影響はないので、それほど深刻に考えなくてもいいのかもしれませんが、なんせ2回目なので。礼儀の問題かと。
仕事場を出るときに、何かやり残したことはないか、確認して出ようかと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ