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“我”の存在が辛い

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有り難し有り難し 37

いつも回答ありがとうございます。
うまく文章にまとめる自信がないのですが、聞いてください。

もともと私は、自分の意見を持つこと、気持ちを言葉にすること、それを他人に伝えることが好きだと感じていました。友達の相談に乗ったり、ネットに文章を載せたりしていました。周りからの評価は、『(正しいかはさておき)意志を持って行動できる人物』です。これは仕事で昇進するにあたって上司や顧客から頂いた評価です。

自分の意見を発信することで、存在を認めてもらいたい、という気持ちが根底にあるのかもしれません。ある時、私は「自分のことが好き」なだけであって「相手の気持ちへの配慮が欠けている」のではないか、と気が付きました。例えば、友人の相談に乗っている時です。相手の気持ちに寄り添うことは大事と分かっていながらも、自分が感じた意見と指摘をズバッと言ってしまいます。

意識しなければ、相手への配慮より自分の気持ちが先に出てしまうのです。ここまでの文章でも、「自分」という単語がたくさん出てきてしまっています。

ここからが悩みの本題です。

上記の問題に気が付いて以降、会話や文章を書く場面で、“我”の存在を感じて辛くなることが多くなりました。誰かと話していても、あぁ、私は今、近況報告と題して自慢を言ってしまった。と感じるし、ネットに投稿するにも、私は今、すごいねって感じてもらいたがってるんだ。だからこの内容を書こうとしてるんだ、と辛くなり消してしまいます。誰かへのアドバイスも、偉そうに言う権利なんて自分にはないのではないかと感じます。

また、下手の横好きなりにネット小説を書くのが数年前から一番没頭できる趣味だったのですが、登場人物を通して自己の主張を映そうとしている自分に気付き、執筆もできなくなりました。本当は書きたいのに。

ある程度は、他人の目線なんて気にしないほうが生きやすいだろうと思います。しかし元来の性格上、他人への意識を持たなければ私は自己主張が強くなるでしょう。

二つの折り合いをつけられず、今はただ“我”の存在が辛いです。そして根本的原因である、自分を認めてもらいたい欲求との付き合い方について、アドバイス頂けると嬉しいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

“我”がなくせないとしたら

浄土真宗(大谷派)では帰敬式(ききょうしき)という仏様の弟子になることを誓う儀式の際に三回にわけて髪を剃り落とす真似事をします。
(※僧侶となる得度式の場合は実際に剃ります)

これは浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の師僧である法然様が「3つのもとどりをすてよ」とおっしゃられたことにちなみます。「もとどり」とは髪の束のことで、法然上人は人には目に見えない3つの髪の束があるというのです。それが次の3つです。

①利養(りよう):自分の都合を取り計らい、得になることはするけれど損になることはしないような、自己中心な計算心を持つこと。

②名聞(みょうもん):自分をよくみせようとし、名誉とか地位などを欲しがる心。

③勝他(しょうた):他人に勝たないと気が済まない心、競争心。

なぜこの3つを捨てなければならないかというと、現に今みかんさんがそうであるようにこの3つの心は苦しみを生むからです。
自分を中心とし自分の都合を守るようでいて、実は自分を苦しめている心であるからです。

では、この3つを捨てて苦しみから逃れることはできるでしょうか。この3つの心をみかんさんは完全に捨てられますか?

私にはできません。どうしても他人に勝ちたいと思い、自分は認められたいと思ってしまいます。

実は浄土真宗の宗祖親鸞聖人もこの立場に立ちました。私たちがいくら修行し、勉学してもこの苦しみから逃れることはできないと自分の身の事実に深く頷いたのです。

ある浄土真宗のお坊さんは言いました。

苦をなくすことはできないが苦を苦と知ることはできると。そして苦しみを逃れるには苦をなくそうとするのでなく、苦を活かす道を知ることだと。

これはまさに親鸞聖人が歩んだ仏道をあらわしているように思います。
みかんさんの今のお悩みへのヒントにはなりませんでしょうか?

相談の際は相手の気持ちを優先し傾聴・同意に徹して、相手の機が熟したところで自分の意見を伝える。
一方小説は正に自分の意見をストレートに表現する場としていかんなく“我”を込めてみてもいいのでは?
詳説への他者からの意見や批判から我が破られたり、あるいは誰かの相談の際にも役立つような人間としての深みが得られることもあるかもしれません。

“我”を抑える場面と、“我”を活かす場面を探ってみてはいかがでしょうか。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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「無我」

みかん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、本来「我」というものは無く、「無我」を説く教えとなっております。

まあ、この場合の「我」とは、「実体的に成り立っているもの」、あるいは、「他に依存せずに成り立っているもの」というものとなります。

「私」というものも、何か実体的に、独立自存として成り立っている「我」というものが、どこかにあるのかと言えば、そのようなものは無いというところとなります。「空」ということであります。

もちろん、「我」が無いといっても、何も無いという「無」ではありません。

たしかに、拙生も、貴女様も、存在はしています。存在はしていますが、それは色々な要素が仮に集まって成り立っているようなもので、仏教的には、「五蘊仮和合」というようなものとなります。五蘊とは、色(物質・肉体)、受(感覚・感受作用)、想(表象・概念作用)、行(意思・意志作用)、識(意識・認識作用)の五つの構成要素のことを申します。

そのどこを探しても実体的な「私」というものなど見当たらないというところとなります。

ただ、そんな「私」も色々な因縁(原因と条件)によって、他に依存して一応は成り立っているというところとなります。

ですので、他に依らなければ「私」は分かり得ないというのも、ある意味では当然なこととなります。

ただ、他に依るにしても、その他としての因縁(原因と条件)によって左右されてしまうというところがあるのであります。

できるだけ良い因縁を調えることで、良い「私」というものを調えて参りたいところとなります。

承認欲求というものも、他との存在との相互関係次第となるところであります。

仏教としては、相手のことを自分の事と同様に捉えて考えるという「同事」ということがございます。

まあ、簡単には、相手の気持ちを考えて、相手の幸せを考えて行動するという感じであります。

少しずつでも、「同事」について考えて行動していけるように調えていって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
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