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同じ会社の女性に質問されました「コート、何着もってる?」。私は片手でたりるほど。その瞬間「やだー、貧乏人。たった、それだけ?」
物を大切にする主義なんです、私。ちゃんとクリーニングに出してお手入れしてますもの。
また別の日に彼女から質問が…「何人と関係もった? 私は付き合うたび! 愛されてるか確認だもん。子どもができた、ったら言って去っていくかどうか。そしたらさー、できちゃった、子ども。望んでないのに超、迷惑。で、何人と?」
バカじゃないかと思いました。
本当に超迷惑、赤ちゃんからしたら、たぶん。
そのような事があり、彼女がいろんなひとに私の事を話し、私は「貧乏人で男しらずオンナ」と言われています。
会社の中で広まっています。
どう対処したら良いのでしょうか?
というか、私はそんなに「おかしな人」ですか?
「おかしな人」はあなた達です!と彼女達に言いたい私ですが…。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「ド菌」ちゃんより「善玉キン」ちゃんへ発酵を進める。

「キミたちッ、いい加減にしないかっ!アンパ~ンチ!👊」
私がアンパンマンなら、今すぐそこに飛び込んでアンパンチをお見舞いするところでしょうが現在「顔が濡れて力が出ない」状態です。
私がバイキンマンだったらこう言いましょう。
「はひふへほ~!オマエがそんな女たちと付き合ってればお前もおんなじレベルになるから関わるんじゃねぇよ~。」とホラーマンも一緒になって説得するでしょう。
「世の中カチマケがすべてだ」とおもっている心の貧しい人間は多いですねぇ。
優位に立ちたいためにあえてあらかじめ自分が勝てるところからそういうことを聞いて自分より弱いところを見つけたら低い立場扱いして自分が上に浮かび上がろうという姿勢を感じます。
それにしてもバブリーな話ですね。持ってるコートの数で人間の価値が決まるのでしょうか。「シモシモ~📞」とか言ってませんか?その人。(笑)
それは要は本人がコンプレックスがあるのですよ。
都会に住みたい人は根が田舎根性だったり、やたら金持ちになりたい人は根っこがボンビーだったりするものです。人間誰もがナイモノネダリーなものです。そういうある種かわいらしい人間の心理を良く知って相手の言動に振り回されんようになることが大きな心、宗教心です。
実際、男性はそういう上から目線な人や物を大事にしない女性を嫌うものです。あなたの恋する人がそういう女性がタイプだとしたら、あなたにはふさわしくないでしょうし。男性たちだってその女性のことを「キてんなー」とか思っていると思いますよ。
「スカッとTV」でしたら、そこからドキンちゃんさんのあこがれの食パンマンさまがやってきて「キミたち、全部話は聞かせてもらったよ?」から始まるリアルドキン♡ストーリーが展開されそうなものですね。
悪玉菌は悪玉菌と和合するものです。
あなたは関わってはいけないタイプの人たちです。
あなたは善玉菌、イースト菌、天然酵母として素敵な❝職❞パンマン様との出会いが訪れるまで微発酵を続けていってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元 様
こんばんは。
ご回答、ありがとうございます。
ごめんなさい。ご回答を読んで笑っちゃいました。面白くて面白くて久しぶりに笑いました。
楽しいご回答をありがとうございます。
おったまげ〜!な出来事は関わらず、微発酵を続けていきます。

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