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素直に意見を聞くことが出来ない

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素直に上司の意見を受け入れることが出来ません。
注意や指摘をされると人格否定されたように感じます。

わたしも様々なことを考えながら仕事をしていますが、認めてもらえたと感じたことはここ数ヶ月ありません。
以前一緒に働いていた上司はよく褒めてくれる人で、私が中心になった仕事で賞が貰えた際にはすごく褒めてくれました。

いまの上司からは指摘や注意ばかりされるのですが、中々素直に受け入れることができません。
指摘や注意をされたくない!という思いからついつい「でも」という言葉が出てしまい、「でもと素直に受け入れないそれがいけない」と指摘されます。
わたしが反省しなければいけないことは素直に反省するつもりです。しかし、そうなった原因を理解して貰いたいのですが、話すことすら許されず、仕事にやりがいを感じることができません。
しかし、上司の間違いや失敗を見つけて指摘した際にもうやむやにされたり、以前は違ったとぐちぐち文句を言われたり、素直に聞いて貰えたことはありません。

今日派手に言い返してしまったのもあり、今後どのように関わればいいのでしょうか。

また、わたしが素直に聞けない気持ちをどのように処理し、素直に受け入れればいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

目線はどこを向いていますか?

お仕事お疲れ様です。大変頑張っていらっしゃるのですね。
その分職場に苦手な方がいると憂うつにもなってしまいますね。

苦手な人、信頼できない人からの注意はどうしてこうも聞きにくいのでしょうね。「あなたに言われたくない」という気持ちが勝ってしまうのでしょうね。たとえその注意の内容が正しかったり有益な内容であっても素直に聞けないのですよねえ。

しかしここはちょっと冷静になりましょう。

はるちゃんさんのいらっしゃるその場所はどんな場所ですか?

職場ですね。お仕事をする場所です。その会社には会社の目標があってそのために職員が力を合わせる場所でしょう。

大事なことはその上司に勝つことでも、その上司のあら捜しをすることでもありません。会社には会社の目標・目的もあり、お客様や取引先もあることでしょう。

はるちゃんさんはどこを向いてお仕事をしているでしょうか。上司といがみあって向き合うのでなく、上司と同じ方向を向いてお仕事しましょう。

お互いのミスもフォローし合いましょう。お仕事はチームワークが大切です。なかなか素直に意見を聞けないご自身の姿を自覚なさったはるちゃんさんがその上司よりも精神的には大人になって、態度をあらためてみませんか?

和かい表情と、愛のある言葉が大事であるとして仏教では「和顔愛語(わげんあいご)」と説かれます。自分の姿を自覚した人には「柔和忍辱(にゅうわにんにく)」の身のこなしも備わります。相手からの侮辱も柔らかい物腰でいなしてしまって耐えることです。

「やりがいを持って仕事に臨みたいのに、素直に聞けず恥ずかしい・ごめんなさい」

という態度を持ちましょう。言葉にして伝えてみるのもいいかもしれません。
どうしても他者の態度は目についてしまうものですがまずは自分からです。自分が変われば相手も変わるものです。

目線を上司からもっと大きなところに移し、良いチームワークに努めましょう。もちろん無理は禁物ですから息抜きも大事です。愚痴を言い合える同僚などがいると心強いですね。

はりちゃんさんがその上司の立場になる時には後輩を褒めて伸ばせるステキな上司になってください。応援しております。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

「わたしはこう思う」なんてどうでもいい時がある

人間は根底に自分の条件付けが強く働く。
身を守る気持ちが強い人ほど傷つくのを恐れてそれが強く働く。
ただし、その反応が正当かどうかを見極める必要はあります。
そうするのが良いと自分で思っていても、結果的に苦しみが去らないのだとしたらその方法はよく見えても間違っているのです。
わたしという存在は「わたし」越しにしかものを見ようとしません。
全部自分に都合よく見てしまうものです。
ところがメンドクサイのは自分にとって悪く考えてしまうことでも都合よく考えてしまうことがある。
「ああ、どうせ、また、嫌がらせだ、なんで、いつも、ひどい、イヤだ…」
自分にとってそれは絶対に良い結果をもたらさないのに悪く考えることを優先してしまうことが人間にはあります。
一度頭を上げて「わたしはこう思った」ということから離れてみましょう。
もうそのシーンも、そのページも通過しているはずです。
その時「そう思った」なんてことをいつまでも強く握っている必要などないのです。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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