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三性説と唯識と中観 六十頌如理論について

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龍樹の著作とされるこの本の中には、龍樹が「識」の作用を認めている様な節があり、唯識に類似した考えがあります。(34頌)
しかし、世俗に於いて自相を認めざるを得ない唯識思想と、
世俗に於いても自相を認めない龍樹の正統な中観思想(ゲルク派)は相容れない物だと認識しております。

ここの龍樹の記述は一体どういう事なのでしょうか?

それとも本来「三性説」と「唯識」は独立していた、と云う事と関係が有るのでしょうか?

2015年12月5日 2:55

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

如来・覚者の善巧方便の目的について

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「元素など説かれているものは(すべて)意識に集約される。それを知ることによってなくなるから、誤って考えられているものでないのか。」(六十頌如理論・三十四頌)

本頌では、本章十一『「すべては存在する」と説くのはなぜか』の全体の意図するところから、本頌についても如来・覚者の善巧方便の目的として説かれているものの一つの例として考えると良いのではないかと存じます。

如来・覚者は、必要に応じて、つまり、その者の機根に応じて、中観も説けば、唯識も説くということでございます。但し、目指すべきところは勝義・涅槃・悟りへのいざないとなります。

この章の理解と致しましては、中論の「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』、あるいは、「観法品」(第十八・第八偈)『一切は真実(そのようにある)である」、「一切は真実ではない」、「一切は真実であって且つ真実ではない」、「一切は真実であるのではなく且つ真実ではないのでもない」。これが、もろもろの仏の教説である。』というところにおける龍樹大師が意図されていることの理解が大切になるのではないかと存じております。

勝義・涅槃・悟りへのいざないというものは、何も中観帰謬論証派の教えだけとか、あるいは密教だけとかというものではないということでごさいます。どうしても私たちは優劣上下で物事を考えてしまい、最高最上のものを求めてしまいがちになりますが、その教えが合うか合わないかは、悟りへと向けてのそれぞれの機根次第となります。唯識の教えで悟れないということではなく、唯識の教えでも機根次第(悟りへ向けての因縁次第)では、それを機縁としてやがて悟れる者も当然にいるかもしれないということでございます。

補足として、龍樹大師は、識の働きや作用など、縁起的なあり方まで否定されているわけではなく、あくまでも対象も識の側も実体、自性、自相としての成立を否定されている次第でございます。

川口英俊 合掌

2015年12月6日 16:52
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

いつも丁寧な解説をして下さり有難う御座います。

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仏教をもっと学ぶ方法は?

こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 38
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どちらの宗派、教えを信じれば良いのか

初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

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