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ブログに自分の思いを書いてもよいものでしょうか。

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初めまして。

hasunoha内での問答(https://hasunoha.jp/questions/2905)を拝見し、私も自分の病気との付き合い方や今までの人生をブログに書こうかなと思いました。
私自身は人生において、この質問をされたゼラチンさんほど深い苦しみを持たなかった気もしますが、それでも同じように病気で悩むどなたかが読んでくださって、少しでも気が楽になることがあるかもしれないと。

しかし最近、同じような病歴の方のブログを拝見したところ、寛解間近のメンヘラ(個人的にはメンヘラという言葉が嫌いなのですが……)について、その方の思われることが率直に書かれてありました。
その方は、病気のことを個性と軽く言うメンヘラが苦手とのことで、それを読んだ私は正直とても傷つきました。というのも、私は病歴が長く、朝なかなか起きられなかったり睡眠時間が長かったりすることに10年以上悩んでいますが、それはもはや私の個性ではないかと思い、あきらめ始めていたためです。
そのブログを読んで、自分自身をはじめ、自分と同じように考える人を否定されたと感じてしまったのです。
おそらくその方は、病気を個性と「言わざるを得なくなった」心境については書かれなかったのだと思います。それはその方の考え方でもあり、書くことは自由です。
しかし、その記事を読んで、私のように傷つく人間がいるのも事実です。

お坊様に質問です。
私自身が自分の病気のことや人生についてブログに書いたら、同じように傷つく方が出てくるのではないかと思い、ブログを書くことをちゅうちょしています。
それでも書くべきでしょうか。

長々とぐちってしまって申し訳ありません……よろしくお願いいたします。
私自身の甘さから出たぐちです。喝も覚悟しております。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

世の中には色んな人がいる

書くのも自由ですが、読むのも自由です。いや、自由と言うから語弊が生じるのですが、書くのも読むのも自己責任です。

お釈迦さまチョイス・人生の苦8選に「怨憎会苦」(おんぞうえく)というものがあります。「会いたくない人間に会ってしまうことは思い通りにならない」という苦です。
自分と考えのあわない人は必ずあちこちにいるものなんです。もっと言えば悪人だって絶対に無くならないんです。お釈迦さまの弟子の中でさえ、お釈迦さまが亡くなって喜んだどーしようもない奴がいました。お釈迦さまでさえ、世の人々をことごとく自分色に染めることは出来ないんです。ましてネットならなおさらですよ。

その現実を受け止めて、自分の心身は自分で守る努力をしないと、辛くなるのは自分自身なんです。だから自己責任。読むのが悪いという意味ではなく、自分の心を守るために情報はちゃんと取捨選択しましょうという意味です。何でもかんでも真っ直ぐに受け止めれば良いってモンではないのです。

世の中には色んな人がいる…だからスルースキルも生きていく上で大切なんです。

さて、ブログを書くかどうかですが、YouTubeで100万高評価付いている動画でも3万くらいは低評価が付いているものです。
同じ言葉でもそれによって救われる人もいれば傷付く人もいます。それは書く側のセンスでもありますが、同時に読む側の感性の違いでもあります。それを恐れて何もしなければ、誰1人として救えない社会になりますよ。そしてさらに行き過ぎれば自分が救われるための行動さえも出来ない社会になるでしょう。今の社会は割合としてすでにその状態になってしまっている部分もあります。それは目指す方向が間違っています。

ブログ、書けばいいと思いますよ。結果がどう転ぶかはその時になってみないと分かりません。でも、あなたが善意で書いたその善意自体は、誰がどう評価しようと揺るがない事実なのです。
読み手がそれを理解できなかったとしても、それはその人が善意を善意として受け取れない人間だったということです。もちろん書き手がちゃんと伝わる文章を書けているなら…という前提ですけどね。そこは勉強と経験でしょう。失敗しながら学びましょう。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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ブログに書いていいと思いますよ。
ただ、特定の誰かを傷つけないように、また、個人を特定されないように、プライバシーに気をつけて、言葉の使い方にも気をつけて書きましょうね。
あなたのブログを見て励みになる人が1人でもいたら、あるいはあなた自身の励みになるなら、試しに書いてみましょう。
何か問題あったらいつ止めてもいいのですからね。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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良いか悪いかは置いといて、直感を大切にしてみる

えふちゃ様

最初に結論を書きますと「ブログを書こうと思った」という直感を大切にしていただければと思います。今までえふちゃさんは感情よりも理性を優先に考えてきたと思われますので感情を優先する場所を持つのが良いのかなと思う次第です。

以前はブログをおすすめしましたが、別に運動でも歌でもユーチューバーになってもかまいません。ここに投稿できるという事は、ネットの環境があり、文字入力ができて自分の気持ちを文章にすることができる能力があるという事ですのでブログをおすすめした理由です。「文章で相談することができる」というのは高度な能力です。ここに相談される方はそういう高度な能力を持っているにもかかわらず気づいていない方が多いのです。

日記ではなくブログをすすめるのは反応があった方がモチベーションを高めやすいからです。本当は「書き出すこと」が重要だと私は考えています。もちろん仰る通り読み手はこちらの気持ちを汲み取ってくれるとは限りません。私は受け取り手には「誤解する権利」があると考えています。それがなければ読書感想文はすべて間違いです。読者の意図をそのまま受け取れる人などいないからです。逆に言えば様々に「誤読できる要素」を持った作品こそ良い作品なのではないでしょうか。

あなたが「大丈夫」と語りかけても「私の気持ちがわかるわけない」という人もいれば、あなたが「呪ってやる!」と書いても「私の気持ちを代弁してくれてすっとしました」と受け取る人もいます。むしろ否定的な感想を持つ人が増えることこそ「認知度が広がった」と考えても良いくらいです。

10人いれば2人はあなたが裸踊りをしても変わらず認めてくれるでしょう。2人はあなたが世の中を救ったとしても批判するでしょう。あとの6人はその日の自分たちの都合で日和見の意見を言うでしょう。根拠はありませんが人とはそのようなものだと思います。
そしてそれが駄目なわけでもありません。

ある意味では「いい加減なものなのだ」という事を知る(気づく)事が大切で、そして自分の考えもまたいい加減なものなのだなぁと自分自身を笑えたら問題は問題でなくなっていることでしょう。

思いを吐き出すこと、その事によって「入ってくる」ものがあると私は思っています。話す事は放す事。文章にして吐き出してみるのが良い方法であると私は考えております。応援しております。

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有り難し
おきもち

御縁があって一般人からお坊さんになりました。現在は小さなお寺の住職をさせて...
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質問者からのお礼

ご回答くださり、誠にありがとうございます。
一つ一つ心にかみしめながら拝読しています。

三宅 聖章様

書いていいとおっしゃっていただき、ありがとうございます。背中を温かく押されるような励ましをいただけたように感じています。
おっしゃるとおり、書くときにはプライバシーに気をつけて書きたいと思います。誹謗中傷にもならないように……
ご回答いただき、ありがとうございました。

大慈様

情報の取捨選択、今の時代は特に必要だなと痛切に感じています。自分の心を自分で守るために大切ですね。重々気をつけます。
また、YouTubeの例も、「確かに!」と納得です。動画でも本でも何でも、誰もが100パーセントよいと賛同するものはありませんものね。
自分の思い(善意)が、なるべく誤解を受けることなく人に伝わることを目指して、注意を払って記事を書いていきたいと思います。
ありがとうございました。

けんじゅ様

ご回答くださり、ありがとうございます。
確かに、ここに質問される方は(私を含め)文章で自らの思いを書きつづり、お坊様方に伝えようとしていますね。
それも能力の一つであるとは、思いもよりませんでした。ご指摘ありがたいです。
また、10人中6人が日和見であるとおっしゃっていただき、何だかとても安心しました。
あまりに恐れてばかりだと、何も書けなくなってしまいますものね……(かといって、意図的に攻撃するものもいかがなものかとは思いますが)
ありがとうございました。

「本当の自分と向き合う・らしさを取り戻す」問答一覧

学びは身になっているのか、実感がない

お世話になっております。 人生を通してなのですが、学びたいことに対して、特に実務系より精神面、自己啓発の観点の方で、それが消化されて自分のものになっている感じがあまり得られずに悩んでいます。 いろいろ講演会を聞いたり、本を読んだり、ネットで共感したことなどをもっと自分の生活や思想に取り込みたい、深く学びたいと思っても、なかなか深化できないです。自然に出て来ないし、学びも進みづらい。 仏教とかも元々文系教科(特に古文・漢文)が苦手だったので、本を読むにも頭に入って行きづらいときがあります。他のものにしても最近はうつ病とかもあって、昔より文章から要旨を掴むのが下手になってしまいました。 そもそも話題の本、タイトルから自分の欲した答えやスキルが得られそうな本、好きな著者の書いた本、何らかの形で薦められた本、やってみたいことが出来たが勉強しようと思ったら芋づる式に出てくる関連著書、あるいは興味が別なことへ移ってそちらの本・・・すべてに取り掛かることもできず、積ん読として無駄になることもしばしばです。 本もかみ砕いて熟読するにも時間がかかるし、でも速読したら結局自分の読みたいようにしか読めてなくて、本当に著者の思いを汲み取れているのかわからなくなります。 さらに、たまに振り返ったりしないととても浸透しないしすぐ忘れてしまうのですが、それも量が増える。多くのものに触れようとしなければいいものには出会えないけど、じっくりかみ砕くことを怠ると簡単にその知識は腐る、そのジレンマに悩んでいます。 最近はインプットや振り返りのために時間を取るのも下手になった感じがありますが、折角そうしてもスマホや別の事務仕事に時間を取られて、予定は常に狂うしやる気も保ちづらい。じゃあやめれば?と予定変更しても後悔が残ってすっきりしない状態です。 お坊さんは毎日のおつとめの中で大事なことを振り返っていると思うのですが、当然新しいインプットだってしているはずだと思うのです。 学んだことを血肉にするためにどういう事をしていけばいいのか。 いろいろ興味を惹かれることが多い中、何か学びを絞るためのポイントはあるのか。 新しいことを身に付ける中で、新しいものを取り入れつつ以前のものを腐らせないためにはどうすればいいのか。 アドバイス等ございましたらご教授いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 4
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納得のできる生き方をしたい

私は何に対しても不安になってしまいます。 目には見えない病気なので家族や友人にもあまり理解がされず「もっと頑張らなきゃ!」「家にずっと居ると暇でしょ?」「私だって肘が痛いけれど仕事を頑張っている」など言われてしまいます。 たしかに家族や周りから言われるように私は甘えているだけなのかもしれません。 周りの人達は悩みを抱えながらも体調が悪くても一生懸命、仕事をしたり生きているのに私は人生をなめているというか一生懸命過ごせている気がしていないので、周りからも避けられているように感じてしまいます。 働かないだらしない人とは関わりたくない、ネガティヴな発言しかできない人とは関わりたくないなどと思われているのではないかと常に不安です。 連絡も相手から来ることはないので、私から送るのですが連絡をするにも迷惑だと思われているのではないか、友人と食事に行っても私と一緒に過ごして楽しいと思ってくれているのかな、もう会いたくないと思われているのではないかと相手の顔色ばかりを気にしています。 現在していることは浴槽を洗ったりはしているのですが家族や周りから見たら、そんなことは当たり前で何も偉くはなく、頑張った内にも入らないというような言葉を言われたり、心配して貰いたい、ありのままを伝えたら嫌われてしまう考えだけで嘘をつく癖が治らないなども含めて生きていることが怖いです。最近は今の人生を一生懸命生きようとかではなくて亡くなった後のことばかりを考えてしまいます。自分ことは自分しか分からないから周りの言葉など気にしなくてもいいと思うときもあるのですが、どうしても周りの目や評価が気になってしまいます。少しでも生きていてよかった。仏教の目的の「私が私らしく」「自分を愛おしく」思えるような生き方や考え方を教えてください。

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なんか成長した

昔の私は嫌なことにこだわって嫌なことをふくらませて自分をいじめてました。 高校のとき、家庭科の先生から 空を見上げてごらん!自分の悩みなんてちっぽけに思えるよー! とアドバイスをもらっても 国語の先生から どんなに自分が悪くても明日はやってくる。寝て忘れるんだ! とアドバイスをもらっても 意味わからんし(`Δ´) でした。 そして、ネットで、モヤモヤしたら お掃除しなさい。 お風呂に入りなさい。 などと書いてあっても モヤモヤ、イライラとまらんわ(`Δ´) でした。 どうして、いろんな方からのアドバイスが受け入れられたかというと、子供の存在でした。 歯磨きせん!って言われて、押問答してて、イライラするけど、可愛い言葉や仕草をされるとなんかそれに癒されて、どうでもよくなってなんか笑顔になります。そして、悩みをほぼほぼ忘れます。 あぁーこういうことなんだなってわかりました。 私は人のせいにして生きるのが大好きでした。 人の幸せを見るのが辛くて、買い物以外は外に出ませんでした。 そしたらぶくぶく太り、軽度肥満になりかけました。 人のせいにした人たちが、私を守ってくれるの?私の健康を守ってくれるの? そう気づき、3年で10キロ痩せました。 BMI適正体重になりました。 ゆっくり痩せたのでリバウンドなしです。 去年の健康診断でさえ、お医者さんからも保健師さんからも褒められました。 今年の健康診断もさらにお医者さんからも保健師さんからも褒められるー(^ω^) これからもたくさん成長します。

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自分らしく生きるとはどうすればいいか

はじめまして よろしくお願いします。 私は、人からの評価が気になる、人にどう思われたか気になる、人の気持ちを読んでできる限り尽くす、ほめられたり好かれると非常に嬉しくすぐにその相手を大好きだと思い、逆に批判されたり否定されたらとても気になり腹が立ったり恨んだり・・・というところがあります。 これまで職場のような浅めの関係性の場所で最後必ず辛くなり、何年も我慢した挙句パッと人間関係を切ってしまうことが多いです。お世話になって感謝する反面、本当の私を分かってくれない、裏切られたと思ったりしてしまいます。私自身は職場でも人の本質を見て付き合おうとしてしまいがちです。 心から相手と理解しあいたいと思う気持ちがあります。障害のある子どもに関わる仕事をしていますが、障害ではなくその人自身を見ることが得意です。 他者評価を求めている、承認欲求が強いのかとも思いますが、ただ、私は、ずっと自分のことは好きなのです。努力できますし、人に優しいですし、感性も豊かです。 母がいつも褒めてくれましたし、好きでいてくれました。 ただ母が極端に心配性で、人からいい母親と見られようとしていた弱さはある人でした。(私が30代の頃亡くなりました。)いい子の私はいつも母を喜ばせようと努力してきました。その影響はあると思います。ただ、愛情をもらって自分に自信も持てるように育ててもらっています。 なのに、なぜ、いつまでも精神的に自立できず、人に好かれたいのでしょうか。 自覚はないのですが、私は、自己肯定感が低いのでしょうか? どうすれば精神的に自立して自由に清々しく生きられますか。

有り難し有り難し 11
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自分との向き合い方、親との接し方

小さい頃からメンタル面が弱いです。 今でも、成人男性や酔っ払っている人が非常に怖かったり、自分に自信がとにかく持てず、私自身のことを褒められてもしっくりきません。 丁寧に説明されると嬉しいことには嬉しいのですが、心の隅では「過剰評価だ」と感じてしまいます。 それらについてネットを中心に調べてみたところ、親からの影響だとか、愛情不足だとか、幼い頃に褒められてないだとか……そういった言葉が様々な場所で「あなたは悪くありません」と一緒に、頻繁に書かれていました。 確かに、親に褒められたことを思い出そうとしても出てきませんし、抱きしめられたり頭を撫でてもらったことも思い出せません。 けれど、10代の頃こそ親に愛されていないと思い込んでいましたが、今現在では「あれが両親の言うところの愛情だったのかもしれない」と思い当たる出来事も数個あります。 思っていたように育児がうまくいかず親も苦しかったのだろう、と、親へある程度の共感や理解もできるようになりました。 一方、考えれば考えるほど、どうしてあんなことができたのかなぁと不思議に思ってしまいます。 向こうが「愛情だ」と言っていても、私からすれば苦痛でしかありませんでした。 それでも、きっと両親は嘘をついていなくて、本気で私と弟を愛しているのだと思います。 頭では「愛されていた」とわかっていますが、完全に割り切れているわけではありません。 親に裏切られたこと、傷つけられたこと。それらを忘れることもできなければ、許すこともできそうにありません。かといって、縁を切るほど憎みきれているわけでもありません。 本題に戻りますが、 私の持っているトラウマや自己肯定感の低さ、希死念慮、そういったものを全部親のせいにしても良いのでしょうか。 みんなの言う通り、私の努力不足や能力不足だったり私が怠けているだけではないのでしょうか。 また、愛憎半ばな親にはどう接すれば心身穏やかに暮らすことができるでしょうか。 実家から出るメリットが「親と離れられる」しか思いつかず、且つそれが(少なくとも今は)特別大きなメリットでもないため、心構えなどを中心にお言葉をいただけるとありがたいです。

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自分自身と向き合う

いつも大変お世話になっております。 ハスノハは私の心のささえです。 今回ご相談させていただきたいのは「自分自身と向き合う」ということです。 お恥ずかしながら私は、いい年なのに精神的にとても未熟で、子供の頃から大人になるまで本当に様々な罪を重ねてきました。 二十代前半までは人にしてきた事よりされてきたことへの苦しみ、三十路の今はされた事よりしてきた事への後悔で毎日苦しんでいます。 こんな私のことを大切に想ってくれる人を裏切り、私利私欲の為に利用したり、自分がされて嫌なことをしてしまったり。 自分の欲望を抑えられず、後先考えず衝動で動き、無知さで大きな過ちをしたり。煩悩の塊です。 あの頃は、ただひたすら目の前にあることしか考えられなかったのだろうと、今は思います。 過去は幻、未来は妄想、過去に執着して今を放棄するのはとても愚かだなと頭ではわかっていますが「あぁ、なんであんなことをしてしまったんだ」と過去の自分を恨んでしまいます。 そんな過去の自分や今の自分としっかり向き合い、これから清く正しく生きていきたいです。変わりたいです。 しかし、今まで見て見ぬふりをしていた気持ちや過去と向き合うということが、こんなに苦しく大変なのかと悩んでいます。 自分自身と向き合い変わっていくためのアドバイスをいただきたいです。 まとまりのない文章で申し訳ありません。よろしくお願いします。 (以前、別のご相談させていただいたときに教えていただいた懺悔は今後も続けていきます)

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自分らしく生きたいけど怖くて不安です

私の母は専業主婦で、今まで私にたくさん時間をかけてくれました。しかし、かけ過ぎて私自身がどうしたいのかが今までよく分からないまま過ごしてきました。 母は強要はして来ないけれど、気付いたら母が敷いたレールの上にいたような感じです。高校は母が見つけた高校に通っており(自分でもきちんと気に入った高校ですが)、母が推す就職に強い地元の大学、福利厚生が手厚い大企業に入り、結婚相手を見つけ、子供を産むという人生にこのままだとなりそうです。 今までは私もその人生を望んでいるつもりでしたが、最近、老後の資金のためにお金に関する本を読み始めたところ、私は母の考え方に流されすぎているのではないかと気づき、自分が本当にやりたいことを考えてみました。 私は地図を眺めることや旅行計画を立てることが大好きなので、そのようなことを仕事にしたいし、結婚はそこまでしたいとは思いません。まだ自分のやりたいことがしっかりとまとまっていないのですが、少なくとも母の思い描く人生をそのまま生きるのは嫌だなと思うようになりました。 しかし、今まで私は世の中の一般的な親子よりも長時間母と過ごしてきたので母が思い描く人生から外れると幸せの保証がなくなる気がして怖いです。一種の洗脳のようなものなのでしょうか…。これからの人生を、自分が行きたいように生きていく勇気が欲しいです。

有り難し有り難し 5
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ