仏道と神道につきましてお教えください
こんにちは。
いつも有難く多岐にわたる内容の問答を拝読させていただいております。
大変、ためになっております。
今年になり、やっと天照さまと氏神さまを家にお祀りさせていただきました。
神社・または神棚の前に行くと、気持ちがピシッとなる感じ・凛とする感覚・良い意味での威圧感、そして寺院・仏様の前に行くと、不思議な安心感・ほっこり感・言い方が悪いですが甘えたくなる感じ…があります。
さて質問なのですが「信心」の意味は、神様と仏様で意味が異なりますでしょうか?
自分なりにここhasunohaはじめネットや本で勉強した中、(かなり簡潔で申し訳ないですが)仏教では「菩提心を持ちそれを実行する」が最終的には信心であり信仰だと思っています。
神道で言う信心とは、主には「誓い」なのでしょうか?
自分的には神様に感謝をしつつも「絶対的であり恐れ多い」感覚を持っています。
うまく表現できずにすみません。
お教えいただければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
神は「私たちを育む自然」仏教は「私たちを導く教え」
神社めぐりが好きなお坊さんがお答えいたします。
>質問なのですが「信心」の意味は、神様と仏様で意味が異なりますでしょうか?
・・・結論から言えば、違うといえるでしょうか。
仏教の信心とは、基本的には「安心(あんじん)」を得ることです。あなたのおっしゃる通り、「菩提心をもちそれを実行する」のが極地で、仏の教えに従うことで悩みを解決し安心すること、そしてそれを他人にも施すことが仏教の新人です。現世利益の祈祷などは、あくまで安心をえる手段(方便)でしかありません。
一方、神道の信心とは、「感謝」が根幹なのではないでしょうか。それは、神道の神々は基本的にすべて「土地神」であるからです。
仏は、すべてに遍満している・・・つまりすべてが仏であり、どこにでも仏がいると考えますが、神道の神はそうではなく、ある一定の土地や物に寄り添って存在します。(これを依代といいます)
例えば全国各地に「八幡さん」がありますが、もとは大分の宇佐市にある「宇佐八幡宮」があり、それを各地に「勧請(おまねき)」したので、いまは全国に八幡さんがお祀りされています。天照大神が各お家にお祀りされているのも、お札を依代にお家に勧請しているんです。
仏像がなくてもお参りができますが、神道では依代がないとお参りできません。それは、神が土地神である所以です。
以上を簡単にまとめれば、仏教の信心の核となるのは「仏の教え」で、神道の信心の核は「依代(土地)」です。
性格が全然違うんですね。
僕たちは、そんな「神様の住まう土地」に訪れるわけですから、「またこの土地に来させていただきありがとうございます」と感謝するんです。
ただ、土地というと少しわかりずらいかもしれませんので、「その土地にある自然」と思って下さい。
自然は、時には僕たちを育んでくれますが、時に厳しく、時に荒れ狂うこともあります。
>自分的には神様に感謝をしつつも「絶対的であり恐れ多い」感覚を持っています。
とあなたが感じるのは、まさに「神=自然」だと直感しているからでしょう。
仏の教えは変わりませんから、ある意味安心感があるかもしれません。それも、あなたが直感している通りです。
しかし、仏の教え自体は私たちを育んではくれません。あくまで私たちを導いてくれるだけです。
日本人は幸せです。自然宗教と、教義が完成された宗教どちらも身近にありますから。
神道は崇敬 仏道は帰依
と専門用語で説明しても、煙に巻かれちゃう感じですよね。私自身きちんと理解していると断言できるかどうか危うい部分がありますが、私なりの理解しているところを述べさせていただきます。
私が理解している「崇敬」とは、神への感謝という意味です。神道の神様は、キリスト教イスラム教の全知全能の神とは違います。私たちを守ってくれている氏神(祖先の神様)であり、産土の神(土地の神)であり、万物に宿りし神である。それらの神々が八百万の神であると理解しております。八百万の神は大自然そのものであり、時には厳しく時にはやさしく我々を抱き育んでくださっています。そのことに感謝して、社殿に向かって柏手を打ち拝します。
仏教における「帰依」の説明は難しいですね。帰依を理解する上で参考になるのが、道元禅師が『正法眼蔵 生死の巻』で「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」という言葉です。自分のすべてを仏様にお任せしてしまうという意味に理解しております。
仏教における信仰の基本は、帰依三宝です。仏法僧の三宝を自分の拠り所として尊び護持していくことです。道元禅師は「仏はこれ大師なるがゆえに帰依す、法は良薬なるがゆえに帰依す、僧は勝友なるがゆえに帰依す。」と述べています。
仏とは、我々を導く素晴らしい師匠のことである
法(教え)とは、我々の心の病を治してくれる良薬である
僧とは、共に仏道を歩む、素晴らしい同行同学の仲間のことである
という意味です。
質問者からのお礼
【不悪院 恵成 様】
おはようございます。
私の拙い質問にご回答をいただきありがとうございます。
感謝します。
神様は育んでくださる、仏様は導いてくださる…の違いや、元々の「性格」の差が、ある程度理解できたような気がします。
特に神様は土地に在られるということも感銘でした。
つい最近まで神仏習合であったことや、神社でおみくじをひいた時に「信心しなさい」とあった時によく考えていました。
いただいたご回答の中にある未だ理解出来ていないお言葉を今日のお昼休みに調べて勉強させていただきます。
お忙しい中、本当にありがとうございました!
【吉田 俊英 様】
おはようございます。
分かりづらい質問にご丁寧な回答をいただきありがとうございます。感謝します。
神道は崇敬 仏道は帰依…はぃ、ニュアンスで感じとるのが精一杯です(>_<)
三宝に帰依する、は、毎日の勤行やら仏教についてばかり調べているのである程度は理解できているかなぁ、と思いましたが、また新しいものが自分の中に入ってきました。
広い心をもって勉強していきたいと思います。
神様にも仏様にも感謝のこころを忘れず生活していきます。
お忙しい中、ご回答ありがとうございました!
お昼休みに、先生からいただいたお言葉と道元禅宗様のお言葉を調べます💦難しいです💦
追記【不悪口院 恵成 様】
追記【吉田 俊英 様】
(連名で誠に申し訳ございません。)
少し自分なりに勉強しました。
太陽や雨の恵み…自然そのものに感謝。
私たちが暮らす土地を守ってくださっていることに感謝。
豊穣に感謝し、お米一粒にも感謝。
けれども時には天候が荒れ狂い農作物やお魚が捕れなくなったりもします。
感謝はしようと思ってすることではないので
心から自然と感謝できるようになりたいと思います。
芯から有難みを感じられる人間になりたいと思います。
「お米一粒残さない私」なのですが、それはもちろん「感謝」もあるけれど、「バチ当たるから残さない私」だとも感じました。
大切な気づきをいただきありがとうございました。