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トラウマから逃れられない

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有り難し有り難し 16

以前、就職活動の不安から質問させていただいた者です。その後無事に良いご縁をいただき、4月から勤める予定です。

ただ、今度は違った不安から夜もなかなか眠れないことがしばしばあり…。

一番は人間関係についてです。私は先日まで(1年ほど)アルバイトをしていたのですが、最終日であったにも関わらず社員の方々は笑顔一つ見せてくれず、声色も何だか冷たいようでした。ちょっとしたミスにも呆れたような反応をされ、目線もろくに合いませんでした。こうした情景が最後の思い出として未だに脳裏に焼き付いています。決してその方々に難があるわけではなく(他のアルバイトさんとは和やかでした)、気に障るような私がいけなかったのだと思います。

今までにも友人関係において何度か、一緒に過ごす時間が長くなるほど関係が希薄になる、ということもありました。話題の乏しさだけでなく、自身の外見的・内面的魅力のなさなども痛感する出来事が多かったように思います。こんな気持ちを抱えたままでは入社後もどなたかの気分を害するのではと憂鬱な気持ちを抱えています。

すでに起こってしまった出来事を過去のものと割り切り、気持ちを切り替えるには何が必要なのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

🐯トラも🐎ウマも飼いならして♡ 本質を見極める。

トラウマというものの本質は、過去のことを
①思い出して
②その思い出した思いにああじゃないかこうじゃないかと
③不安な思いや難癖をつけたりネガティブなことを思ってしまう行為によって苦しむ自縛行為です。
本質は③のネガティブな思いをあれこれ塗りたくって「過去のこと🐯🐎」を思い起こして「今」やっているだけです。その辛かった出来事は過去の事ですが、そのネガティブな思い方はいつやってるの?いつやるの?今でsy…(以下略)

その時、トラに咬まれたり馬に蹴られたのは確かに痛かったでしょうが(蹴られたんかい)、その時の🐯トラブルも🐎ウマくいかんかったことも、それはもう過去からもうどこにもいません。今心の中に思い起こされているトラもウマもみーんな「あるような気がする」のですが思っていたり、掴んでいるのは自分の心のスクリーンの中だけです。
その心のスクリーンにリプレイされていることは、すべて過去の残像、カスです。
自分の心の中で思うことって、全部自分が飼いならすべきことです。
思いという精神活動は、上手に使えばディズニーやハリポッターのような壮大なファンタジーを描いて人を楽しませることもできますが、用い方を誤れば妄想が肥大してネガティブ地獄に陥り、お池にハマってさぁ大変。💀

これらはみんな時事ではない思いの活動であると知ると良いでしょう。
お池にハマっても、目の前には新しい今のドジョウ(事実)が「こんにちは」しているはずです。
先程庭で飼っているニワトリがケンカをしていました。片方がケースに入っていてケンカにならんのですが、ケンカしながらも時々エサ食っとるのです。(笑)
ケンカというトラブル、お池にハマっていながらも、新たに現れてきたドジョウに出会うととっちの方に気が向く。事実は考えとは関わりなく常に今として迎えに来てくれています。
今、これをご覧になられていた時は、トラ🐯もウマ🐎もトラウマもニワトリ🐓のようにケロリと忘れいます。全てがドジョウに代わって「こんにちは」と新しいお迎えを身心に生じさせてくれているのです。
🐯🐎トラウマの正体は思いというマボロシ。考えが脳内スクリーンに映し出した幻です。
実態のない馬に蹴られたりトラに咬まれたりしないようにしましょう。
一休「それでは将軍様~私がトラとウマを捕まえますので屏風から追い出してください。」

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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