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人付き合い

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有り難し有り難し 26

質問させていただきます。
よろしくお願い致します。

私は人との距離感、コミュニケーションがうまくとれません。

昔は人と関わるのが好きでしたが
今は知り合いに町であっただけで震える始末です。
自分でもなんでこんな性格になってしまったのか
わかりません。
普通だったら小さいころ人見知りでも成長するに従って
克服してゆくものなのに私は年々ひどくなってゆくばかり、、、
本当に情けなくなります。

以前、あなたは距離感が近いですねと注意され
大変恥ずかしい思いをしたので人と距離を今までよりとるようにしたところ
今度はあなたはいつまたっても他人行儀でと陰で言われてしまい無視されてしまったことがあります。

自分で自ずとわからなくてはいけないことなのに
人と接すれば接するほど人嫌いが加速してしまい
最近では家族以外とはほとんど会話らしい会話をしていません。

どうかこんな悩みにご助言ください。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

だんだん人を素直に見れなくなる

子供の頃は、物事を素直に見ることができます。周りの環境に合わせ全てを受け入れることができます。

しかし、おとなになるにつれて、様々な知識を身につけることで、我見で物事を見てしまうようになってきます。自分というものを通した見方をしてしまうのです。
それが悩みの原因です。

人と接する時頭の中で瞬時に色々考えていませんか。
自分を良く見せようとか。
こんな風に思われてしまうかもとか。
自分なんてとか。
この人怒っているのかなとか…。

そうした考えをマコトとしてみるのではなく、目で見たまんまを受け入れるのです。考えを優先してはいけません。子供の頃のように素直にうけいれることが、救いの道です。

人と比べること、人目を優先することを止め、目の働きのように見たまんまを優先してください。見れば善悪なく入ってきます。すでに受け入れています。
あなたの目も耳も鼻も体も、全ての体の機能は相手を受け入れてますから、安心して堂々と接してください。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

人に何かを観ている

相手の顔を見る時あなたは、何かを観ていると思います。
それって、本当に相手ですか?
いや、絶対にそれはあなた自身の思いでしょう。
あなたが相手にしてしまっているのが、そっちだからいけないのです。
それが人間関係がうまくいかなくなった最大の原因です。
私の回答に対して、何かを観るかもしれない。
それは、あなたの中に生まれた、あなたの想念です。
自分の想念を人間の人と人という間に挟み込んでいる。
自分の思いと付き合うのはやめにしましょう。
あなたが相手にし始めたのが、あなた自身だから相手とうまく話せなくなっていることに気づいてください。
実物、本物は、そこで出会っている本人だけですよ。
そちらを大切に、今日、三人と話してみてください。
一人でもうまくいけば、自分を取り戻せたという事です。
朗報を期待しております。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

同級生はまだ子ども

距離間というのはお互いに歩み寄って確認しあうもの。あなただけに距離が近いとか遠いとか求めてくるのは彼女らが幼い証拠。
相手にしないこと。そしてあなたが20代30代の大人の女性となった頃、彼女たちもやっと大人になっていることでしょうから、その時にお相手して差し上げなさい。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

みなさん回答ありがとうございました。

皆さんの回答を胸に生活していきたいです。
朗報を聞かせられるよう頑張ります。

目から鱗のことばかりです。

確かに私は被害妄想が激しいです、
少しづつ治していきたいです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ