禅をして無心になってたらいつ考えればいいんでしょう?
こんにちは、はじめて質問させていただきます。
よく思うのですが、禅宗などのお寺では、毎日何時間も禅をすると聞きます。でも、そんなに毎日何時間も禅をしていたら、いつ世の中について考えるんでしょう?
この質問にお坊さんの方が回答していらっしゃるように、お坊さんなら人々を救うために説法が必要なんじゃないのかなと。でも、禅をして心の中を無にしてたら、考える暇がないんじゃないのかなと。
それとも、心を無にしてたら、ある日すごく立派な考えが出来るようになるんでしょうか。
私はすごく考えるタイプなので、禅をして心を無にしてると、時間を無駄にしてるだけなんじゃないのかと思って、禅をするのも意味があるのかなと勘ぐってしまいます。
禅をして心を無にしてるお坊さんは、いつ世の中について考えてるんでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
無とは考えないことじゃない
無とはあなたがパソコンなら受信した情報をアレコレいじったり、マウスやカーソル、ポインターを動かさんことです。
考えというものは発生時点において自分がやっていないでしょう。
それを触らずにドンブラコ🍑スルーするのが無私なる心、ワタクシずることのない心で、無心という。
私たちお坊さんは、自分だけが自分のために坐禅しているわけじゃないんだ。また坐禅する事自体は、他の人の救いにならない事はきみが気がついている通りだ。
仏教の教えが、坐禅がとても良い事だから、みんなにやってもらいたいんだ。そのためのお寺でそのためのお坊さんなんだ。
きみも、坐禅をしてみるといいよ。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
やはり座禅の結果得られるものとは、私にとっては雲を掴むような気持ちですが、お三方とも、座禅はとてもいいものだと仰られてることがわかりました。
まだ座禅は少ししかしてませんし、8分ほどでねをあげてしまいますが、少ないながら続けてみようかと思います。
ありがとうございました。