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わかってほしい

回答数回答 3
有り難し有り難し 28

誰かに
自分の気持ちをちゃんと
わかってほしいという思いが強く強く
あります。

パッとわたしのことを聞けば
ただの愚か者で世の中の笑いものでしょうが
私だって
なぜそうしたのかには
訳があるんです。

また、ワガママですが、
わかってほしいのは
誰でもいいわけでないです。

また、
他人に全て理解してもらうのは
不可能と
知っています。

もし、この人に話したいと思えて、
その人もわたしの話を聞いてくれるとなったときに、

わたしは自分の気持ちを
表せる言葉の表現ができなくて
もどかしいのです。
誤解を生むことを話したりして
支離滅裂なことに
なったりして、
会話が苦しくなります。

会話力も言語力も不足してるし、
自分が毎日死んでいく気持ちです。

自分を表現できないなら
生きる意味ないと思いませんか?

生きてく力が湧いてきません。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏のアウトプットを

自分がこの世界から認識上で分離した心を人間と言います。
自分とこの世界とが未分の心を仏と言います。
大木と葉っぱのような関係。
魚と海のような関係。
もともと全体的な一体な存在が私たちなのです。
別々になろうとすると、個我、自我になる。
へだてを強く持つ前の自分に還ってみましょう。誰もがもともと名無しの権兵衛。
立場も役職もない。
誰のものでもない。
只の人に帰ってみて下さい。
そうした中で無理のない、アウトプットをして見てください。
自己表現という言葉でなくてもいい。
息を吸うだけでいい。
息を吐くだけでいい。
それだけでこの命は元々喜んでいるから。
あなたは自分を満足させて生きていこうとしているでしょう。
それをやめてみましょう。
あなたは自分の命を喜ばせるように生きてみましょう。
呼吸が早まることもなく、体に負担をかけることもなく、自分の体が楽な姿勢をして、自分にウソの無い生き方を。
誰かからあなたのなかの「自分」がもっと誰かにとって理想的であれと言われていませんか?
あなたはあなた。
あなたの自分より、あなたの命が喜ぶように生きてみてください。(^<^)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

表現は無形

「表現できない」という表現をしているから大丈夫。
あるがままの姿それ自体が表現となっているからです。自然体。
表現に、こうでなければならない
という形はないのです。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

言葉に囚われて

こんばんは。何か苦しいようですね。
「自分を表現できないなら…」とありますが、その「表現」は、言葉に限ったことでしょうか?であればそれは、言葉に囚われていると見えます。日本語には相当細やかな語彙があるそうですが、それにしても言葉で全てを表現することは不可能。もちろん、全てを言葉で相手に伝えることも不可能です。
なぜ、そうなるのか。私たちの育てられ方によると、私は踏んでいます。
親というものは、最初、赤ちゃんの訴えを受け取るのに難儀します。共通の媒介、言葉がないから。で、赤ちゃんが言葉を話し出すと、あー嬉しいと思って、言葉でなんでも伝えようとします。3歳になると一応会話ができるので、もう言葉で充分通じると思っちゃうのです。
しかし、そんな簡単なことではないですよね。取り敢えず生活を送れるだけ。「言わなきゃ分からないよ」と言ったって、なんて言えばいいのか分からないことはある、いつまでも。
幼稚園や学校で習う言葉は沢山ありますし、大人になってからも辞書のお世話になる。知ったとしても、それぞれの経験によって、言葉の持つイメージ(意味するところ)はそうとう異なります。
ましてや今は、何事でも簡単に済まそうという風潮があって、「やばい」だの「やだー」だの、狭い共同体であれば文脈で行けるけれど、その外部には全く伝わらない会話が多くなされています。
語彙が少ないと、それだけ表現も思考も単純にならざるを得ない。だから本を読んだりして、意識的に語彙を増やして行かねばならんのです、本当は。
ま、それは説明ですけれど、今あなたがこの問答で表現しているのは、「私は自分がもどかしい」ということでしょう?それは言葉にもできているし、ちゃんと受け取れていると思いますよ?

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

質問者からのお礼

ありがとうございます
表現は無形なんですね。
たとえそうだと理解しても
わたしは苦しいです

ありがとうございます
表現は無形なんですね。
たとえそうだと理解しても
わたしは苦しいです

ありがとうございます
表現は無形なんですね。
たとえそうだと理解しても
わたしは苦しいです

そうですね。
何かにならないといけないと必死です。
最近は本を読んでます(ただの辞書ですけど。

もどかしいさが、
どう、もどかしいのか表現できない

みんな言わなきゃわからないって言われるしな

ぜ、みんなはうまく伝えられるのだろう。語彙力高すぎる。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ