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いつまでも引きずってしまいます

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有り難し有り難し 43

私は他の人にキツく言われたり怒られた
りするといつまでも引きずってしまいます。

キツく言われたりした時は心が引き裂か
れたような気持ちになり、その後も気にしないでおこう気にしないでおこうと思っていても心のどこかにその事が引っかかってその日一日も何にも楽しめなくなってしまいます。
酷い時には一週間ぐらいずるずると心の中で引きずってしまい辛いです。

こんな時にはどうすればいいでしょうか…?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いま流れてきている皿に集中する。

ゴリラ先輩こんにちは。ブタゴリラの丹下っす。
今、回転ずしに居るッス。
ヤバいっすよ。ゴリラ先輩。ずっと引きずると牛になっちゃいますよ。
牛は反芻をします。何度も噛んで、何度もカミカミします。
一回のみ込んだものをまた戻してカミカミしてるっスよ。
それって回転寿司だとブーイングっす。
カミカミしたものをまたレーンの上に置くようなものっす。
店員来て追い出されるッス。
もうあたらしいネタ来てるんすから、目の前の皿に集中あるのみっす。
あ、ひょっとして、皿取れなかったんすか。
このくら寿司って、取りずらいっすよね。ビッくらポン。
お皿5枚でガチャガチャ当たるかもしれないっす。
だから、前の皿(思い)は、ホールの中に入れて、サヨナラするッス。
ワサビが効き過ぎたようなものっす。
でもワサビもいつまでも辛い訳じゃないっす。
ああ、辛かったなぁという思い返し、思いの反芻だけが良くナイッす。
あ、新しい皿来たっスよ?
今度はちゃんととってくださいよ?

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

仏様にお任せすることで今の自分を受け入れる

 他人にきつく言われたり怒られたりしてすると、どんな人でも平気でいられることはないと思います。決してあなただけではありません。何かに失敗しても同じでしょう。失敗してもケロッとしている人は本当に反省しているのか、と思ってしまいますよね。
 私たちには、常に「自分はこうありたい。」「自分はこう見られたい。」という気持ちがあります。そこから向上心が生まれるとは思うのですが、それと同時に、今の自分を正しく見て、今こうして怒られた自分以外に、自分はないことを受け入れることも大切なのです。それなのに、「自分はこうあってはだめだ。」という思いが強ければ、怒られたりしたことを、いつまでも引きずってしまうのではないでしょうか。
 では、どうしたら、今の自分を受け入れることができるでしょうか。人は誰かに認められるとホッとするものです。安心するのです。私は毎朝、仏様に手を合わせる生活をしています。仏様の智恵は、私たちの「自分(今こうして怒られた自分以外に、自分はないこと)を正しく見ることが出来ない心」を明らかにしてくれます。そしてそれと同時に、仏様の慈悲は、そのような私のことを無条件で包んでくれます。つまり、仏様に手を合わせることで、今の自分が明らかにされると共に、その私を仏様にお任せすることが出来るのです。そして仏様にお任せ出来ることで、私は自分を受け入れることが出来るのです。それは仏様によってこのままの自分で構わない私がここに生まれるからです。
 みんな怒られ、失敗をしながらの人生を歩んでいます。少しでも、私からの回答がお役に立てれば幸いです。

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有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

キツく言われる 怒られる

こんにちは。ちょっと問いの文章だけでは分からないことがあります。
「怒られる」ことのネタというのは、あなた自身から見て真っ当なものですか?つまり「これは怒られても仕方ないな」と思えるような事?それとも、あなたから見て理不尽な事?
その辺りが分からないと、多分どうにもならんのではないかと思います。
きょうび、すべり台社会と言われるように、一度落ち始めたら止まらない、少しでも落ち始めちゃいけないと、闇雲にそればかりを恐れる人たちがいますが、そういう感覚、ありますか?
つまり、「原因は何であれ、怒られるのイヤー!」な状態であれば、それなりの回答もありますよ?
自分では大した事ない問題と思っていて、単に相手が不機嫌だったからひどく叱られたみたい、というのであれば流してゆくべきですが、そうでないなら、あなたの成長の糸口を示してくれているのかも知れませんよ。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

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