「安心」とは何でしょうか
以前もご相談させて頂き、素晴らしいご回答を頂戴致しました。
不安になるとそのスクリーンショットを見て心を落ち着かせています。
ですが、時にどうしても居ても立っても居られない恐怖に襲われます。
その為またご相談してしまいました…ごめんなさい…
私は「殺されたくない」という想いが強く、病院で「強迫神経症」だと診断されました。
ですがその時診て頂いた先生に、私の感じている恐怖心を説明したところ「言っている意味がわからない」と笑われました。
それがショックで、もう病院にも行けていません。
周りの支えてくれる人たちの表情からも、たまにめんどくさそうな様子を感じ取ってしまいます。
側に居てくれるだけでも感謝なのに、とてつもない孤独を感じます。
私はどこにいても「誰かに狙われている」「殺されるかもしれない」という恐怖心を強く感じています。(自意識過剰と言えばそこまでなのですが…)
最近は誘拐が怖くて外にも出られません。
そして実際のニュースなどを見ると、長く引きずり、毎日何度も思い出し、人が亡くなった悲しみに涙が出ます。
「殺人に遭う確率なんてほんの少しだよ」と慰められても、遭わない格率が0ではない限り安心できません。
100%安全な場所などないと頭では分かっています。
ですがどうしようもない恐怖なのです。
私はどうすれば良いのでしょうか?
安心とは何なのでしょうか?
安心して眠って、安心してご飯が食べたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
医師と相談してルールの実践を
この医師の解説によると「強迫神経症(強迫性障害)」は
「強迫性障害は、心の弱さや意志の弱さからおこっているものではなく、脳の伝達物質の働きが何らかの異常をおこしている1つの病気で、薬や精神療法でのアプローチが必要なものです。」
とのこと(http://cocoromi-cl.jp/about/ocd)
お坊さんを頼っていただけるのは嬉しいですが、きちんと医学的アプローチをする方がよさそうです。
その病院が合わなかったのなら変えてみるのも良いでしょう。
強迫観念に任せているだけでは観念が強まる恐れもあります。医師と相談のうえで一定のルールを設けてルールにしたがい行動するのがよいのでしょう。
強迫観念にたいして心の持ち様での安心を模索するのでなく、強迫観念を抱えたままでもルールにしたがい行動を実践する中で脳が安心を認識していくのではないでしょうか。
これは仏教的にも言えるアプローチであると思います。
ある心持ちに対しを当人が別の心持ちを持ってきてなんとかしようとするのは心の遊びになってしまいます。
仏教では行(ぎょう)、すなわち実践が大切です。実践し、行動を整える中であとから心もついてきます。
安心して眠って、安心してご飯を食べるために、まず安心しようとするのでなく、不安な中でも誰かに支えてもらい、一緒にしっかりご飯を食べる。不安なままでも必ず布団に入り目をつぶるようにするなど行動を整えてみましょう。
実際に眠っている最中は安心です。ご飯を食べている時もその食べ物の味を感知しているその瞬間に不安はありません。
しかし強迫性障害の方はあらゆる感覚の中から不安だけを持ち出して注目してしまう「とらわれ」が起きています。
その「とらわれ」でもってあとから不安がなかったはずの瞬間まで不安の感覚で塗りつぶしてしまい、いつも不安であるかのように認識してしまっているのかもしれません。
「とらわれ」はルールの中で行動していく中で抑えられていくのではないでしょうか。
念仏すれば極楽浄土に往生できます
南無阿弥陀仏と念仏をとなえてください。
阿弥陀仏は、あなたを極楽浄土に往生させてくれる仏様です。
南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏を尊敬し、阿弥陀仏に全てをお任せするという意味です。
南無阿弥陀仏ととなえられる人は、いつ死んでも良いのです。
今の念仏が人生最後の念仏かもしれないと思って南無阿弥陀仏をとなえます。
結果的に生きのびたら、それはそれで良いのです。
私も同じように考えてしまうことがよくあります。
はじめまして。
僧侶でありながら、、、と思われるかもしれませんが、私も周りに人がいながらも孤独を感じることがよくあります。
それから、私も20年ほど前から心の病を持っており、病気とうまく付き合って行くように、気をつけています。
さて、「お礼」のところにありました、「お母さまに病院のことを伝えるには?」と言うことですが、風邪を引いたら内科に行き、怪我をしたら外科に行き、歯が痛くなったら歯医者に行く、、、と、いった感じで、身体の不調箇所や症状によって、専門の知識を持たれている病院に皆さんが行っているはずなんですよね。だから、心の病であれば、専門医のところへ行くことは、本来何の不思議もないはずです。どの病気も早めの治療がいいことも変わらないと思います。
私は、発病当初は、家族に連れられていった病院にかかっていましたが、ある程度落ち着いてから、自分にあった病院を探そうと、いくつかの病院を回りました。その中で、診察時に私の顔を見て、きちんと話を聞いてくれる先生に会い、通院を決めました。
お母さまは、以前に悲しい思いを経験されている分、午前2時様のことが心配なのではないでしょうか?お母さまと一緒に病院に行くことは難しいですか?
心の病は、なかなかわかってもらえないことも多いかと思います。
私も子どもがいますが、子どもが病気や怪我をしないか、心配でたまらなくなることも多々あります。専門知識がなく、想像だけが膨らむために、不安になるのです。
お母さまと、一度ゆっくりと、そして、正直に話し合ってみては、いかがでしょうか?
質問者からのお礼
ご回答頂き本当にありがとうございます。
「行」という概念に触れ、考え方が少し変わりました。今から出来ることを始めようと決心しました。
ただ一つ病院についてなのですが、
実は身内に、重度の心の病によって既に命を絶った者がおり、母はその事から「病院に行って病名をもらうこと」、つまり「病人」と決まってしまうことが酷く怖いようです。
そのため、私が勝手に病院に行って病名を貰ってきたことにもえらく怒りました。
母に病院に行くことを悪いことではないと伝えるにはどの様に伝えるのが良いのでしょうか…
自分の感情と様々な考えに挟まれ、分からなくなってしまっています…
再度語ってしまい申し訳ありません…
ご回答頂きまして本当にありがとうございます。
指月様
病気というものを無闇矢鱈に不安がり、向き合うことから逃げていたのは私自身であったように感じました。
一度、本気で母や病気・病院と向き合ってみようと思います。
指月様ご自身のお話までお聞かせ頂き本当にありがとうございます、一人ではないと感じることができました。
再度、感謝申し上げます。
願誉浄史様
素敵なお言葉を本当にありがとうございます。
一日一日、一瞬一瞬を大切に生きていこうと感じました。
「南無阿弥陀」というお言葉を、今まで身近に感じたことが正直ありませんでした。
ですがこれからは、お守りのようにこの言葉を持って精進していこうと思います。
本当にありがとうございました。