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大人になってからの友達

回答数回答 2
有り難し有り難し 20

私は24歳ですが、
いろいろあり、
今は友達がいません。
大人になると
学生のような無邪気な友達はできないでしょうか

今、同い年で
いっぱい友達とか昔の付き合いをうまくしているいる人とかなら
躊躇なく大人になってもどんどん
輪が広がってできると思いますが、

一度道を外れた私が
友達を作るにはどうしたらいいでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

友達のタイプを変えればいいだけ

本音を言わない嘘つき友達なら100万人作れます。
本音を言って魂の語らいができる友達が一人いれば100万人に勝ります。
そういうの以外は友達とも言わない友達ヅラした人間。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

友達は変化し続けてます

 こんにちは。私には幼稚園・小学校以来の「友達」がいますが、当時と同じ感覚ではありません。もちろん昔話を共有できるというのは特徴ですが、それ以外に(大人になってからの友達と)違いはありません(話しやすさはあるけれど、余り大した差ではないし)。
 途中で音信不通になったり、連絡が密になったり、急に海外に行かれたり、いろいろ変化はしますけれど、そこを云々言っても仕方無いでしょう?
 …しかしね。
「一度、道を外れた」って…何しちゃったの?
友達リストを何か危険な相手へ流しちゃったとか?売っちゃったとか?そうであるならば、潔く「そっちの道」で友達を探すか
 「いろいろあり、今は友達がいません」次第でしょう。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

道はずれたと申しますか
勝手に勘違いなどして、
ひとりよがりすぎました;(∩´﹏`∩);:

家族がいてくれて、
それだけが今の救いです。ありがたや〜

家族がいてくれて、
それだけが今の救いです。ありがたや〜

本当のことを話せる友だち一人見つけたいです。

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