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同じ嫁として

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私には中学生になる娘がいます。長い間母子家庭で、御縁があり昨年再婚をしました。
夫には弟さんがいて結婚もされていて一歳になる男の子がいました。夫との間にも子どもをという話にはなりましたが、夫は今の時間を大切にしたいしこれから高校、大学と進む娘に教育費をかけたいとのことで夫との間には子どもを作らないことにしました。ご実家もとても穏やかな義母と義父ではありますが、やっぱり子連れということもあり弟さんのお孫さんの写真ばかりあり私も娘も居場所がないように感じてしまいます。
最近2人目ができたようで、私は正直素直にお祝いしてあげられるような気持ちになれず夫に八つ当たりをしてしまいました。
義妹のことを思うと動悸が激しくなり何かわからないのですがものすごくイライラしてきます。

まわりを気にせずに夫と娘をしっかり育てていきたいだけなのに。実家に行くたびに義母には弟さんの子どもの動画や写真を見せられます。
悪気があるようには感じないのですが、その日はずっと義妹のことを考えてしまい吐きそうになるくらい気分も悪くなります。

どこかで娘に対する教育を比べているところがあるのでは?と自分でも思う時はあるのですが母子家庭とはいえ私学に入れて将来手に職をつけてもらえる教育をしてきました。それに対して自信を持っていれば気にならなくなる?などなど。
娘よりも良い学校、良い教育をしていたらと考えてしまうことがあります。
私自身に自信がないのでしょうか?再婚という後ろめたさなのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

子どもがどこの学校に行こうが行くまいがあなたは無関係

そういう昭和な考えはやめましょう。
子どもを縛り付けるだけです。
比較すると自分たちあ可愛がられていないような気がするのでしょうねぇ。わかります。
ですが、だからっていってそこでブチ切れるあなたにはご主人としてもカンベンこうむりたいと思っていると思いますよ。
多分、あなたはおっかない人なんだと思います。もっと優しくなった方がイイでしょう。
自分のコトばっかりだからいけないんじゃないでしょか。
相手の家族としたら、本当は自分の息子であるあなたのご主人との間に子供・孫ができればほのぼのとしたせいかつになったことでしょう。
そういう中であなたを選んでくれたのに、なんつー。
んーーーーー~~~!ぺちぺち!(# ゚Д゚)です。⚡
今晩ご主人に懺悔すべきです。
小さいうちから塾に行かせる、英才教育、習い事…子供の目が死んでいきます。
そのくせおやは送り迎えで何もしない。
どんどん子供から嫌われるだけ。せ いぜい、母親のパワハラでご機嫌取りでいい子ちゃんぶっていくだけです。このhasunohaの相談に親達の抑圧による被害者になった人たちがどれくらいいるでしょうか。子供さんは子供の人生。
好きにさせてあげるのが一番です。
自分が主人公すぎちゃいませんか。
あなただけの家ではないはずです。
関りを大切にすればお子さんもいい子になります。
親がエゴ丸出しだと子供は敏感に察知します。
ああ、私は自分のコトしか見えていなかった
ああ、私は自分のコトしか見えていなかったと繰り替え唱えて自分のエゴの🐯を飼いならすことです。こういうことは旦那さんや友達ってのは言っちゃくれないモンなんす。あしからず。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。ピンポイントの一言があり驚きました。中学の時に幼なじみを病気で亡くしています。唯一その子に周りのこと考えたことある?と言われたことがあります(−_−;)私は変わっていないのですね。
私も比べられて競争しながらの世界で育てられ今も同じ職についているため職業柄を理由にですがなかなか抜けられないのかもしれません。
子どもも私と同じ道を選び今学んでいます。
子どもには同じ世界だとしても優しさを持てるようにしてあげたいと思います。頑張ります!

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