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出家か転職か迷っています

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有り難し有り難し 26

俗世間で言われている幸せ(会社員として働き、良い家庭をつくる)に価値を感じず、悟りを開きたいと思っております。

ですが、今の仕事では結果を出すため、そして生活を送るために毎日嘘をつくことになる(不妄語戒をおかしてしまう)ため、出家すべきか転職すべきか迷っています。

2015年10月から訪問販売の仕事をしています。今の会社では、この仕事で生活できている人たちは皆、

「この辺りのお宅では皆、買ってもらってますよ」などと日常的に多くの嘘をついています。私も結果を出すために、同様の嘘をついています。

嘘をつけば不妄語戒をおかし、悟りには至れない。嘘をつかなければ、結果が出ないのでこの仕事では生活できないというジレンマがあります。

元々「自由に休みが取れるようになりたい」という欲から選んだ仕事なので転職自体はまったく問題ないのですが、そもそも嘘をつかないで俗世間の仕事をこなせるのかどうか疑問です。

もし俗世間の仕事で嘘をつかざるを得ないのであれば、いっそ出家して修行の道に入る方が良いのではないかと思っています。

また、生活のために嘘をついている面もありますが、それ以外でも自分の心の弱さゆえ、見栄を張るために嘘をつくことがあります。

まずは出家せずとも、俗世間の仕事をする中で戒律を守り、悪行をしない努力をさらに重ねるべきなのでしょうか。最後までお読みいただき、有難うございます。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

不染世間法如蓮華在水

世間の法に染まらざること
蓮華の水に在るが如し
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蓮華は泥の中に在ってしかも泥に染まらず。
泥の中でこそ花開かせる蓮華は泥を嫌わず。
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蓮華とは悟り
世間法、泥とはこの世の中
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嘘八百の世の中に身を置くからこそ
悟りを開くことができるのです。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

コスプレ出家より 実質的出家

こんにちは。フェイスブックで具体的な悟りの開き方をカバでも分かるように噛み砕いて連載している
「全日本アジとサンマと悟りを開く会」の会長、ジョー・悟りアニーキこと丹下覚元です。
基本おふざけを交えてますので、アタマのカタい人が読むと分からんですが内容的にはそこら辺のニセ禅僧、ニセ老師よりよっぽどマトモでっせ。悟りを具体的に神秘化せずに説いております。

ちなみに今日の記事です(一部改)
今週の悟りの開きかた
【みつを以前】

「美しいものを 美しいと思える あなたの心が美しい」 みつを

…かもしれないが、みつを氏は仏教学者としては立派だったが悟っていない。
人間には
「美しいもの」とか「美しい」と思う以前の心がある。
アタマで識する以前の世界がある。
ここを知り、そこに住することこそ悟りである。
それは物事や相手に対しての好き嫌いを起こす以前の「出会い頭」を常に生きるということである。
(元々物事に対しては誰もが出会い頭の時点では好き嫌いがないものとして そう なっている)
自分の思いを差し挟む前の、ただ、そうあるだけの様子がある。
好き嫌い以前の出会いがしらのまんまの状態を生きることが禅の悟りです。
出会い頭の事実は絶対にいつでも目前にある。
思う以前に確かな今がある。
「そこ」を感じれば良いのです。
「そこ」に出会えるとあなたの心は悟り状態になる。
これが禅の第一義である。
そして悟りということも何も特別なものではないということを知るでしょう。 ジョー・悟りアーニキ
ウム( ˘ω˘ )我ながら名文ぢゃ。
…てな具合で、人によっては読んでりゃタダで悟りが開けるというお得納得プレミアもんですわ。自分で言うな。
出家して悟りが開けりゃ出家したボーさんはみんな悟ってる。そういう求め方は止めた方が良い。
ところが実際禅宗では悟った坊さんは稀少。売れっ子タレント僧は口先だけで悟っていない人ばっかり。
ちゃんと悟った人の下で直接、悟りの味を説いてもらうことです。
出家する=袈裟をまとう=おのれの心を福田となし悟りを得た人の仏の種まきをすればよいのです。
井上哲玄老師 井上貫道老師 に 参禅すればあなたの心の田んぼも
❝豊作(法作)❞になるでしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

出家せずとも、救われる道

佛教は、出家だとか在家だとかで、救われる救われないといった教えではないでしょう。あなたが今の仕事で嘘をつくことに抵抗を感じていられるなら、嘘をつかずにその商品の魅力を伝えるようにして売ればいいのです。
必ず嘘をつけと言われていても、そんなことどうでもいいことでしょう。
会社自体の体質に問題があるなら、仕事を変えることも考えていいでしょう。

出家したからといって生活は保障されません。悟りを求めるのは、在家で仕事しながらでも十分です。

僧侶であっても多くの人は、仕事を他に持ち、世俗の中で仏道を実践しています。わたしもその一人ですが、上手くやっていく道を探すのです。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

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