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集団心理と対立し続ける自分

回答数回答 3
有り難し有り難し 36

今まで経験してきた集団心理の恐ろしさと、それに気が付く人がほとんど見受けられないことに絶望して、人を信じることも心を開くこともできない状態にあります。

私は読書や歴史的資料を見るのが好きなのですが、それらによって表面的には分からない個々人のことを深く知って、他者に対する理解力や様々な視点を学び、また共感することも多いのですが、集団になるとその場の雰囲気に流されて個人として考えることを途端にやめてしまうあの集団心理だけは納得できません。というのも、私は集団の中には入れないタイプの人間だからです。人間社会に対して、正しく疑いを持たなければ危ないと感じることが多いのです。

けれど、集団と私の差はますます広がり、恨みや憎しみも生まれました。今は、この気持ちが強すぎて他者に対して強い恐怖心と憎悪に苛まれています。その根本は、過去の瞬間瞬間に「自分が上手く対応できなかった後悔の念や自己嫌悪」が正体のようですが、それも含めて人間を憎まない日はありません。どうすれば、この気持ちから自由になれるのでしょうか。お坊さんが心から納得している方法や考え方、経験などあれば教えてください。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

質問とお礼コメントも拝見して【追記あり・これ以上は字数制限】

前回のご相談も拝読しました。苦しい状況が続いているようですね。

願誉先生のご回答に対し、妄想ではなく現実の話としていじめや戦争という具体例を出していただきました。人間の歴史上で戦争が絶えず起き続けてきたことも現実ですし、いじめもそうです。
しかし願誉先生がおっしゃりたいのは、ではあなたの目の前や隣にいる人、たとえば鈴木一郎さんや山田花子さんはみんながみんなあなたに対しいじめや戦争をしかける人ですか?もしそう思うとしたらそれは妄想ではありませんか?ということだと思います。

そして同時にあなたがおっしゃっていることも間違いだとは思いません。集団心理が恐ろしいことはご存知の通りです。
鈴木一郎さんや山田花子さんも集団に所属した時には集団心理に飲まれてしまう可能性は持っている人物ではありますが、だからこそ「個人として考えることを途端にやめてしまうあの集団心理だけは納得できません。」とおっしゃるあなたが集団としての鈴木一郎さんや山田花子さんだけではなく、個としての彼らについて見つめることをやめないのならば、そこに妄想を超えて現実の彼らと出会う道は開かれるのではないでしょうか?

さて、あなたはあなたを苦しめるものの正体を「自分が上手く対応できなかった後悔の念や自己嫌悪」と分析しておられます。
しかしあなたは上手く対応できなかったのでしょうか?いや、その当時上手く対応することができたのでしょうか?
私はあなたがあなたなりにその当時できる最大限の事をなされたのだと思います。

私はもっとできた。こうすればよかった。というのも妄想です。現実には自分の思うとおりにできていなかったとしてもそれがその時のあなたのベストです。

過去は既に過ぎ去りましたが、私たちは今という時間において過去を考えています。やり直しはききませんが見直すことはできます。

「これまでがこれからを決める」のではなく「これからがこれまでを決める」

という言葉があります。

人間を強く憎む気持ちが過去のご自身やご自身の境遇を憎む気持ちから来ているとするならば、まずはご自身を許し認めることからではないでしょうか。

あなたはベストを尽くしてきたのです。誰もあなたを責めることはできません。

追記
問題はシンプルです。
あなたが憎むのは目の前の人そのものなのか、その人について経験則などから自分が思う事なのか、です。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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追記4月12日・「人」という人は、実在しない幻

あなたは、一人ひとりの人間、鈴木一郎さんや山田花子さんなどを見てください。
「人」という概念でひっくるめるのではなく、目の前の人物を見てください。

頭の中で造り上げた概念は、幻です。
電車に乗っているとき、隣に座っている人がいきなりあなたに殴りかかってくる可能性は、ゼロではないですが、めったにありません。
しかし、もしあなたが頭の中で、
「人は怖い。隣にいる人は、いきなり私に襲いかかるかもしれない。この人は、心の中で私をバカにしているかもしれない。」
と勝手に妄想する場合、隣の人は実際には何も攻撃していないのに、あなたは、あなた自身の妄想に攻撃されることになります。

頭で考えた概念は幻だ。
仏教用語では、これを「法は無我である」と言います。
もう1つ関連した教えは、
「心は無常である。」です。
心・感情は変化します。
恐怖も悲しみも怒りも、瞬間瞬間に浮かんでは消えてゆきます。
映画のスクリーンは、映像が過ぎ去れば真っ白いスクリーンにもどります。
映像でスクリーンが汚れることはありません。
あなたの心が妄想雑念で揺さぶられても、妄想雑念が過ぎ去れば、心は平和にもどります。
心は無常。
それは、人生の救いはたった1秒で来る、ということです。

追記4月11日
悩み苦しみの原因を制御するため。
仏教は、悩み苦しみやストレスの原因、つまりは欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩を制御したり消したりして、
悩み苦しみやストレスを制御したり消したりします。
あなたが、「人」に対する怒りの煩悩でストレスを感じているとしたら、
その怒りを消したり制御したりする方が、仏教的にはおすすめです。
そのためには、今まで怒ったり憎んだり悲しんだりしていた対象について、怒ったりしなくなるよう、ものの考え方や見方を変える必要があります。
今までと同じ考え方をしていては、今までどおり苦しむことになります。
今まで妄想雑念だと思わなかったことを、妄想雑念だと思えたら、人生が楽になるかもしれません。
目的(楽になる)から逆算して手段(考え方)を選ぶわけです。

追記4月12日
仏教では「鈴木一郎さん」「山田花子さん」も概念にすぎません。今目の前の鈴木さんは、昨日の鈴木さんとは別の物体。ただ、記憶を受け継いでいるだけ。だから「人を憎まず」。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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tuchigami様

「どうすれば、この気持ちから自由になれるのでしょうか。
お坊さんが心から納得している方法や考え方、経験などあれば
教えてください。」

この部分に答えたいと思います。
祖師の言葉に「須らく見を止むべし。」とあります。
「見」はものの見方、考え方です。考えを離れて下さいという
事です。
私達は様々なものに言葉で意味づけをし、説明し、解釈し、
考え方の世界にどっぷり浸かっています。
ですけど考え方の中には、本質、救い、答え、解決・・・
はありません。どうしてかと言うと、相対的ということもあるし、
思考が大元に在るのではなく、その前に心、意識が在るからです。
心、意識があって、思考が有るということです。
目が自分の目を見れないように、思考は思考の本体、心を
対象化出来ないんです。肝心なところが見えないんです。
ですから「考えを離れて下さい」となります。
坐禅も公案も作務も読経も念仏も共通していることは
思考停止です。考えを離れるということです。
考えを離れるとどうなるのか?
離れればそこに答えがすでにあると言うことです。
色々なことがあ~そうなんだとただわかり始めます。
たとえば、心は智慧に充ちていて、円満で、すべての答えが
備わっているけれど、その周りに沢山の信念、思い込み、知識、
観念、負の記憶、感情に覆われてしまい心本来の力が顕われない、
けど覆っている思考を取り除けば、答え、自由、解放、救いは、
はじめからそこにあるという感じです。
考えを離れるには、私は念仏がお勧めです。
南無阿弥陀仏という言葉でなくても
ありがとうでも好きな言葉でもいいと思います。
唱えている時に思考は入り込む余地ありませんから、
ただ唱えるだけです。朝から晩まで、出来るときに
続けていかれるといいと思います。覚悟決めて本気ですれば
大きな気づきはきっと起こると思います。

考えを離れると、自分の本質に気づき、みんな等質、ひとつ、
敵も味方もないということ、いじめはどうして生まれるのか、
いじめるひとの心の中はどうゆうものなのか・・
罪を憎んで・・のこと
いろいろと自然にわかってくると思います。

字数の関係で説明不十分かもしれませんが、もし納得いくまで
ということでしたら、遠慮なくお尋ねください。
https://butujinosoudann.webnode.jp/

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おきもち

地方の小さい町の小さいお寺の住職をしていました。
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質問者からのお礼

願誉浄史さん
ありがとうございます。お答えの意味は分かるのですが、私が言っている意味合いとは異なるようです。妄想ではなく、現実の話。
具体的例:いじめ、戦争

吉武文法さん
ありがとうございます。中途半端に終わらせたくないので、納得できないことなどはこの場を借りて書かせてください。問題があれば仰ってください。

鈴木さんなどの例えについてですが、個人としての彼らを見ていないわけではありません。私にはない良い所を持っていると人々がいると認めています。ただし、シンプルに物事を捉えるその姿勢が時にあまりにも無防備で「個人としての危うさと集団としての危うさ」の両方を強く感じるのです。

そこにアプローチしても馬耳東風なので、結果として人を憎む気持ちを強めたような形です。ですが、これって本当に「妄想」なんでしょうか。「経験則」だと思うのですが、仏教では違うのでしょうか。

人間のある種の想い(原因と結果に因果関係がない非論理的思考など)を「妄想」とする考え方は納得できますが、これもそうなのですか。では、人間の「過去から得た経験」って何なんでしょう。「その時そうだったというだけで、これからもそうだとは限らない」という理屈は分かります。けれど、仏教に「梵天勧請」ってありますよね。「釈尊は悟った教えを衆生に話しても理解してもらえないのではないかと皆に伝えるのを躊躇した」または「どう伝えたらいいか悩んだ」とか。あれは経験則による人間に対する深い考察がないと、そうは思わないのではないでしょうか。少なくとも「衆生の理解力がどれほどか」を多少なりとも知っていなければ、「理解してもらえないかも」とは思わないですよね。でも、それは「過去のもの」、しかし人心は「無常」と説く。ここで、お坊さんの皆さんが言う「妄想」の考え方だと、人心が変わり移ろうものならば、伝える前に衆生の理解力を鑑みる行為そのものが矛盾しているように思うのですが、違うのでしょうか。

私は仏教は好きではありますが、お坊さんたちは本当にこれで納得しているのですか。その点も含めてて教えてください。

吉武文法さん(追記に寄せて)
ありがとうございます。文字数制限があるとのことで、こちらだけが書きたいことを一方的に書き続けるような形になってしまったこと、心からお詫びいたします。ただ、他のお坊さんにも回答いただけるのであれば、締め切りまで待ちたいと思いますので、追記の内容に関しましても書いておきます。

「目の前のその人に対して憎むのか、経験則からその人を見るのか」ということですが、まず過去の経験には登場しない人物をいきなり憎むなんてことはありません。しかし、どうしても人間一般に対する恐怖心は消えませんので、経験則で相手を見ているのかと言われれば、そうだということになります。もしかして「妄想」と仰ったのは、そこが説明しきれていなかったからでしょうか。だとしたら、申し訳ありません。

過去の該当する人に関しては、個人としても集団の一人としても憎んでいます。何故なら、一方的に個人の尊厳が脅かされる事態にでもならない限り、個人だろうが集団に入ろうが、一人の人間として選択の自由ががあるから。自由であるということは、そこには責任が伴います。これを自覚していないと、後になって他者や集団、または一般論という漠然としたくくりに逃げ込んで責任転嫁を始めます。その最たるものがいじめであり、戦前の民主的投票によってファシスト政権を祀り上げた群集心理です。私はこれらの根源的な問題が極端ないじめなどなくとも、普段の生活の中で出会う様々な人間関係の中に存在していることを強く感じます。

今は危うい時代といえども、少なくとも日本には選択の自由がありますよね。なのに、皆それを軽んじている。こういった社会的な事情が、私の幼少期からの経験と深くリンクしているのです。なので、簡単に切り替えられるほどスムーズにはいかないのです。

願誉浄史さん (追記に寄せて)
ありがとうございます。「悩み苦しみの原因を制御するため・・・」とありますが、仰る通りだと心底思います。そのために、ここで質問しています。なので、納得できない箇所を分かったふりをすることはできないし、放置も出来ないんです。実際の生活の中でこういった質問をとことんまでするという機会はありませんので、許されるのであれば出来るだけ甘えさせていただきたいと思っております。

「ものの考え方や見方を結果から逆算して変える」のなら、結論は出ています。それはきっと「罪を憎んで、人を憎まず」というやつだろうと思います。だけど、その方法がいまいち分かりません。他宗教で申し訳ないのですが、仏教にはこれに辿り着く方法はあるのでしょうか。

願誉浄史さん
ありがとうございます。色々疑問は残りますが、楽になる考え方ではあると思いました。

法演さん
ありがとうございます。「本来クリアな心や意識の外側に、多種多様な考えや思考を植え付けて、それを自分の心や意識だと無防備に勘違いをしているから苦しみが生まれる」ということでしょうか。なんとなくイメージが湧いてきました。念仏がお薦めということですが、般若心経に「掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦」っていう謎の呪文が入っているのも、そういうことでしょうか。
取り合えず、理屈ばかり言っていてもしょうがないので、ちょっとやってみます。

「自分とは・自分を何とかしたい」問答一覧

自分は浮気性なのでしょうか

最近頭から離れないことがあり、ご相談させていただきます。 私には6年お付き合いをしている彼氏がいます。相手からも大切にしてもらっていると感じるし、本当に大好きで結婚したい相手です。誰に何と言われようと浮気や彼氏を裏切ることはしたくないと思っています。 今まで自分は浮気をしたことがないと信じて疑ってきませんでした。 しかし、最近そんなことなかったのかもしれないと悩むようになりました。 きっかけは職場の人たちに、「長く付き合ってきて一回も浮気してないの?結婚してないんだから遊ばないと」と言われたことです。 浮気って結構よくあることなのかなとそこから浮気について考えるようになり、よくわからなくなってきました。 もちろん体の関係は彼氏以外と持ったことないし、自分から他の人に好きだと伝えたことも今の彼氏と並行してお付き合いしたこともないです。 ただ、過去の飲みの席で男の先輩にベタベタしてしまっていたな、とか仲良くしてくれて頼りになる先輩のことを好意的に思っていたのも恋愛的に好きだったと言えるのかも、とか自信がなくなってきました。 また、しつこく言い寄られた際に流されそうになったこともありました。 理性が働き、断り続けて耐えたことでなんの関係にもなりませんでしたが、あれは時間の問題だったかもしれないと思い始めました。実際に少し気になっていた相手でもあったのか、これ以上一緒にいたら好きになってしまうかもしれないと思ったこともあります。 行動に移してはいないけど、心は浮ついていたことが多々あったように思えて仕方ないのです。 そう思い始めると、今後自分は絶対に浮気しないと言い切る自信もなくなってきて、私はすごく不誠実にお付き合いをしているのではないかと彼氏に申し訳なくなります。 飲みの席にはなるべく行かないようにしたり、下手に異性と仲良くなるのも避けたりしていますが自分が信用できません。 私は自分に厳しいだけ? それとも本当に浮気性でどうしようもないのか… 私はおかしいのでしょうか。 自己嫌悪で冷静に考えることができなくなってきました。

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なにが正しいのか、なにをするべきか

 全て無意味に思えてしまいます。哲学的で少し長い話になると思いますが、よろしければ聞いていだたき説法して頂けると幸いです。 自分の生き方の指針が見えません。自分には夢も目標もありません。ただあるのはある経験から得た自分のやるべきことをやるべきだという学びだけです。しかし、私のやるべきこととはなにでしょうか。  「善いことをしよう」と考えたこともあります。しかし、「善いこと」とはなんでしょうか。少し話がそれますが、ボランティアもしたことがあります。しかし、「これは自分が善いことをしたと思い、楽になるための自己満足」だと思いました。要は自分のためなのです。自分は浅はかだと思います。本気で誰かを救うため、例えば国境なき医師団のような紛争地で医療を行うような、勇気も能力も適正もありません。自分のような臆病で繊細で自己も確立できていないような人間が命が関わるのは誰にとっても良い結果はでないと思います。ネガティブで拗ねた考えで自分を卑下しているのではなく、実際に向いている人間にお願いするのが救われる人にとっても良いことだと思います。完全にひねくれた考えがないと言えば嘘になります。しかし、私にとって身の丈にあった「善いこと」とは何でしょうか。 そもそも、世界的に見れば資源は有限で幸せになれる人は限られています。世界がどう転ぼうが不幸せな人がでます。これは大学で経済や経営の勉強をして自分なりに本を読み、世界がそのような構造になってしまっていると考えました。  すると、私は日本に生まれ、両親がおり、世帯収入があり、大学にいけるという世界で幸せになれる席に座っており、その席に座れなかった人からみると加害者とみることができます。すると加害者である私は「善いこと」をしたいという浅はかな自己満足に縋りたいだけの存在であり、私の存在を肯定するには運と弱肉強食の理論でないと辻褄が合わないように思います。しかし、その様な考えはまりにも救いがありません。しかし、このような哲学的な考えが頭をめぐり、何が正しく何を信じればよいか分かりません。正義も悪も人が勝手につくったものであり、全て無意味の様に思います。 私はなにを指針に、なにをすればいいのでしょうか。  

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自分のことで精一杯で人の心が想像できない

(真剣な内容ですが、性的な内容が含まれます) こちらで何度か相談させていただいた方と、先日無事に挙式できました。その後、新婚初夜ということになったのですが、そのことで妻を呆れさせてしまいました。 先に申し上げておくと、私はこれまでそのような経験がなく、当日いきなりそこまで行く可能性もそこまで高くないと考えておりました。妻の誘いで始まり、結局は失敗に終わってしまったわけですが、妻の怒りはそこではありません。 その最中に「ちょっと痛いかな」と言われたので、自分なりに必死に考えて動きを緩慢にしたり方向を変えてみたりしていたのですが、妻曰く「痛いと言ったのに止めてくれなかったのがショックだった。それくらいわかってほしかった」とのことでした。 また、翌日以降にも体調のことや痛みのことを聞かなかったことで、「挙式直後じゃなければ人間性を疑って荷物をまとめて出ていくくらい。失敗したことに怒ってるんじゃなくて、あまりにもわかってなさすぎなのが信じられない。とりあえず勉強して、反省して。30代半ばの女が診断書持って離婚なんて恥ずかしいからしないけど、20代だったらそうしてたよ」と言われました。妻はその後実際に少し体調を崩しています。 以前の質問にも関連するのですが、このように自分なりに考えたことが裏目に出てしまい、他人からすれば「結局自分のことしか考えていない」と思われる(実際にそうなのだと思います)ことが本当に多いです。 後から考えると「確かにそのとおりだ、なぜあのときああしなかったのか」と強く悔やむのですが、そのときには頭が真っ白になったり、一瞬とはいえ極端に楽観的になったり、他者からすれば非常に自分本位な行動を取ったり…もうすぐ30代だというのに、自分があまりにも子供っぽくて情けなく、妻にも申し訳ない気持ちでいっぱいです。妻は態度こそ温和ですが、実は非常に短気なところがあり、上記のような発言もときどき出ます。いつか愛想を尽かされるのではと怖くて仕方ありません。 妻を怒らせるとき、私にも言い分が無いわけではないのですが、妻からすれば言い訳以外の何物でもなく、弁明も聞きたくないと言われます。根本的には相手の気持ちを汲み切れないところにあるのですが、どうすればそこに気づくことができるのでしょうか。

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自分をコントロールできなくなり、不安です

タイトルが20文字までなので変な感じになりました。 私は数年前からリセット癖が起きています。深夜に唐突にデータを削除したくなり、キーボードの変換からアカウント削除まで本来必要なアプリも消したくなります。 スマホだけならまだいいですが、ミニマリストを目指しているわけじゃないのに連日物を捨ててしまいます。診察券やパスポート、卒業アルバム、ゲーム機…後で後悔する(面倒くさくなる)と分かりきっているはずなのに捨てたくなります。実際パスポート以外は捨て方を調べてから捨てました。結果、診察券(再発行)で後悔しました。 前は期限を決めてそれまでリセット関係の行動を起こさないと自分の中でルールを決めたりしましたが、それも失敗してしまい最近は自分ではどうにもできないんじゃないかと思いつつあります…。 原因に心当たりはあります。 元々几帳面な性格で物が散らかってきたなと思ったらまとめて片付けたり、決めた場所に戻したりしていました。 しかし、それに加えて(最近気づいたのですが)大きな事件・事故が身近に起きると無意識にセルフ終活を始めてしまうんです…。 最近、スクランブル交差点で事故がありましたが、その日私は渋谷で遊んでいました。そしてニュースを見て「あの時長めに寄り道しなかったら遭遇して死んでいたかもしれない…」と思い、3日後には部屋がスッキリしました。 他にもコロナにかかった時や地震があった日など、身の危険を感じたり「いつ死んでもおかしくない」と思ったら即セルフ終活を起こしてしまいます。 あとこれは考えすぎですが、セルフ終活中は「早く捨てないと…(あまり物は無いけど)こんな部屋の状態で遺品整理されて中身を見られたら恥ずかしい!」と思っています…。 そして決まって片付いたりリセットした後後悔するんです…。 (自業自得なのですが)これらのせいで思い出の品と呼べる物はほぼ無く、正直同級生の名前や顔も思い出せない状態になっています。 この悪癖どころではない行動を直すことはできるのでしょうか?

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母性に飢えた私は胎児に戻りたい

お世話になります。 結婚相談所にて婚活中ですが難航しており、ご助言いただきたく失礼します。 元々自分に自信はなく、容姿身長収入等でいわゆる低スペックだと自認しています。それらに加えて相談所のカウンセラーはじめ、周囲から「考えすぎ」「繊細」と評されることが多いです。 先日、素敵な女性とお見合いすることが出来ました。 知性と包容力があり、気遣いも見せてくださり、人として信頼できると感じられる方でした。 翌日、お相手から今後の希望が届いたのですが、結果はあいにく「お断り」でした。 後日相談所に理由を問い合わせたところ、 「受け身に感じられた」 「話を広げようと質問したことに対して、自分のことを話したくない雰囲気を感じた」 といったものでした。 ご縁がなかった事実は仕方ないとして、いま改善できることを探している最中です。 相談所のカウンセラーから「次回以降、話し方に気を付ければいい」というアドバイスはあったのですが、それは表面的な対処に過ぎず、根本的な「自信の獲得」にはならないと感じました。 そこで考えを巡らせたのですが、私が内面に抱えているものが良くないはらたきをしているのでは、と疑っています。 先のお見合いと前後して強いストレスを感じる時期があり、その間、私は「胎児に戻る」妄想を繰り返していました。 守られたい。 一方的に与えられたい。 責任を負いたくない。 ひたすら安心させてほしい。 甘えたい。 甘やかされたまま溺死したい。 生まれる前こそ極楽だとすら思えるのに、なぜ生きて社会で生活することはこんなにも…… 例のお見合いの影響で気付かされた面もありますが、どうやら私は母性に飢えているようです。 女性からは、寛容で穏やか、生活力と協調性、共感性を持つ男だと認められたいと思い描いてはいるのですが、お断りの一件は、私の心の底にうずく幼児退行ならぬ胎児退行願望を見透かされた結果ではないか、そのように考えてしまいます。 巷のコラム等で見聞きする限りでは、私のように甘えの欲求をうまく消化できない成人男性は案外多いのでは?とも思うのですが、何か救済手段はあるのでしょうか。 また、お釈迦様が語ったこととして、母胎回帰の幻想といいますか、そういった内容のお話しはあるのでしょうか。 お知恵を拝借できれば幸いです。 宜しくお願いいたします。

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人への意見や気持ちの伝え方、黒い感情

私は機能不全家庭で育ちました 物心ついた時には父から虐待を受けていて 父は賃貸の家の壁に殴って穴を開けたり 私が自分の気持ちを言ったり 父に蹴られてにらむと なんだその目はともっとやられました 母は私のアザを見て離婚を決めました 私は性同一性障害の傾向があり 体は男ですが女の意識が強く 顔立ちも女っぽかったので学校でもいじめられており 友達はほとんどいませんでした 離婚後転校してからもいじめられました 母はすぐ再婚しました しかし再婚相手が働かなくなり その人も気に入らないと家を破壊する人でした 私は再婚なんてしてほしくなかったし 母と二人でいれれば貧しくても幸せだったんです でも妹が生まれ母は私に当たったり 少しの事で怒る事が増え 私もいじめられていましたが 恥ずかしいし母が心配したり悲しむと思うと言えませんでした その頃から毎日悪夢や霊を見るようになり 夜中に何度も起きたり眠れなくなったため 朝も起きれず学校もいじめがあるから行きたくなく 母と毎朝喧嘩するようになりました 母は再婚相手に何も言えず 私が言おうか?と言っても お願いやめてという人でとにかく事なかれで生きていました 私もそんな母の背中を見たり 意見を言うとキレる父 学校でいじめられて反論すると 大勢で一斉に言い返されたので どこか諦めの気持ちが出てきて 嫌な時ほど笑ったり明るく振舞ったり 相手に意見を言えない人間になりました 関係を持ちたくない人に迫られた時も 自分の気持ちを言うのは悪い事だという意識や 父の暴力のフラッシュバック 相手を傷付けるのではないかという気持ちがあり 自分さえ我慢すればと受け入れてしまった事も多々あります でもそれで今いらない病気をもらってしまったりして 本当に苦しいです でも私の内面が綺麗なのかと言えばそんな事はなく 怒りや黒い感情が渦巻いていて 他者に対して憎しみや殺してやりたいというような気持ちさえあります ただ言えないだけ なので他者に対して言いたい事を言って それで反感を買っても自分を通している人達がすごく輝いて見えるのです そして貝のように自分の気持ちを殺して押し黙ってしまった私より そういう人の方が人生をエンジョイしていて 素の自分で接してもついてきてくれる仲間も多いように感じます どうしたら素直に自分を出せるのでしょうか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ