集団心理と対立し続ける自分
今まで経験してきた集団心理の恐ろしさと、それに気が付く人がほとんど見受けられないことに絶望して、人を信じることも心を開くこともできない状態にあります。
私は読書や歴史的資料を見るのが好きなのですが、それらによって表面的には分からない個々人のことを深く知って、他者に対する理解力や様々な視点を学び、また共感することも多いのですが、集団になるとその場の雰囲気に流されて個人として考えることを途端にやめてしまうあの集団心理だけは納得できません。というのも、私は集団の中には入れないタイプの人間だからです。人間社会に対して、正しく疑いを持たなければ危ないと感じることが多いのです。
けれど、集団と私の差はますます広がり、恨みや憎しみも生まれました。今は、この気持ちが強すぎて他者に対して強い恐怖心と憎悪に苛まれています。その根本は、過去の瞬間瞬間に「自分が上手く対応できなかった後悔の念や自己嫌悪」が正体のようですが、それも含めて人間を憎まない日はありません。どうすれば、この気持ちから自由になれるのでしょうか。お坊さんが心から納得している方法や考え方、経験などあれば教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
質問とお礼コメントも拝見して【追記あり・これ以上は字数制限】
前回のご相談も拝読しました。苦しい状況が続いているようですね。
願誉先生のご回答に対し、妄想ではなく現実の話としていじめや戦争という具体例を出していただきました。人間の歴史上で戦争が絶えず起き続けてきたことも現実ですし、いじめもそうです。
しかし願誉先生がおっしゃりたいのは、ではあなたの目の前や隣にいる人、たとえば鈴木一郎さんや山田花子さんはみんながみんなあなたに対しいじめや戦争をしかける人ですか?もしそう思うとしたらそれは妄想ではありませんか?ということだと思います。
そして同時にあなたがおっしゃっていることも間違いだとは思いません。集団心理が恐ろしいことはご存知の通りです。
鈴木一郎さんや山田花子さんも集団に所属した時には集団心理に飲まれてしまう可能性は持っている人物ではありますが、だからこそ「個人として考えることを途端にやめてしまうあの集団心理だけは納得できません。」とおっしゃるあなたが集団としての鈴木一郎さんや山田花子さんだけではなく、個としての彼らについて見つめることをやめないのならば、そこに妄想を超えて現実の彼らと出会う道は開かれるのではないでしょうか?
さて、あなたはあなたを苦しめるものの正体を「自分が上手く対応できなかった後悔の念や自己嫌悪」と分析しておられます。
しかしあなたは上手く対応できなかったのでしょうか?いや、その当時上手く対応することができたのでしょうか?
私はあなたがあなたなりにその当時できる最大限の事をなされたのだと思います。
私はもっとできた。こうすればよかった。というのも妄想です。現実には自分の思うとおりにできていなかったとしてもそれがその時のあなたのベストです。
過去は既に過ぎ去りましたが、私たちは今という時間において過去を考えています。やり直しはききませんが見直すことはできます。
「これまでがこれからを決める」のではなく「これからがこれまでを決める」
という言葉があります。
人間を強く憎む気持ちが過去のご自身やご自身の境遇を憎む気持ちから来ているとするならば、まずはご自身を許し認めることからではないでしょうか。
あなたはベストを尽くしてきたのです。誰もあなたを責めることはできません。
追記
問題はシンプルです。
あなたが憎むのは目の前の人そのものなのか、その人について経験則などから自分が思う事なのか、です。
追記4月12日・「人」という人は、実在しない幻
あなたは、一人ひとりの人間、鈴木一郎さんや山田花子さんなどを見てください。
「人」という概念でひっくるめるのではなく、目の前の人物を見てください。
頭の中で造り上げた概念は、幻です。
電車に乗っているとき、隣に座っている人がいきなりあなたに殴りかかってくる可能性は、ゼロではないですが、めったにありません。
しかし、もしあなたが頭の中で、
「人は怖い。隣にいる人は、いきなり私に襲いかかるかもしれない。この人は、心の中で私をバカにしているかもしれない。」
と勝手に妄想する場合、隣の人は実際には何も攻撃していないのに、あなたは、あなた自身の妄想に攻撃されることになります。
頭で考えた概念は幻だ。
仏教用語では、これを「法は無我である」と言います。
もう1つ関連した教えは、
「心は無常である。」です。
心・感情は変化します。
恐怖も悲しみも怒りも、瞬間瞬間に浮かんでは消えてゆきます。
映画のスクリーンは、映像が過ぎ去れば真っ白いスクリーンにもどります。
映像でスクリーンが汚れることはありません。
あなたの心が妄想雑念で揺さぶられても、妄想雑念が過ぎ去れば、心は平和にもどります。
心は無常。
それは、人生の救いはたった1秒で来る、ということです。
追記4月11日
悩み苦しみの原因を制御するため。
仏教は、悩み苦しみやストレスの原因、つまりは欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩を制御したり消したりして、
悩み苦しみやストレスを制御したり消したりします。
あなたが、「人」に対する怒りの煩悩でストレスを感じているとしたら、
その怒りを消したり制御したりする方が、仏教的にはおすすめです。
そのためには、今まで怒ったり憎んだり悲しんだりしていた対象について、怒ったりしなくなるよう、ものの考え方や見方を変える必要があります。
今までと同じ考え方をしていては、今までどおり苦しむことになります。
今まで妄想雑念だと思わなかったことを、妄想雑念だと思えたら、人生が楽になるかもしれません。
目的(楽になる)から逆算して手段(考え方)を選ぶわけです。
追記4月12日
仏教では「鈴木一郎さん」「山田花子さん」も概念にすぎません。今目の前の鈴木さんは、昨日の鈴木さんとは別の物体。ただ、記憶を受け継いでいるだけ。だから「人を憎まず」。
tuchigami様
「どうすれば、この気持ちから自由になれるのでしょうか。
お坊さんが心から納得している方法や考え方、経験などあれば
教えてください。」
この部分に答えたいと思います。
祖師の言葉に「須らく見を止むべし。」とあります。
「見」はものの見方、考え方です。考えを離れて下さいという
事です。
私達は様々なものに言葉で意味づけをし、説明し、解釈し、
考え方の世界にどっぷり浸かっています。
ですけど考え方の中には、本質、救い、答え、解決・・・
はありません。どうしてかと言うと、相対的ということもあるし、
思考が大元に在るのではなく、その前に心、意識が在るからです。
心、意識があって、思考が有るということです。
目が自分の目を見れないように、思考は思考の本体、心を
対象化出来ないんです。肝心なところが見えないんです。
ですから「考えを離れて下さい」となります。
坐禅も公案も作務も読経も念仏も共通していることは
思考停止です。考えを離れるということです。
考えを離れるとどうなるのか?
離れればそこに答えがすでにあると言うことです。
色々なことがあ~そうなんだとただわかり始めます。
たとえば、心は智慧に充ちていて、円満で、すべての答えが
備わっているけれど、その周りに沢山の信念、思い込み、知識、
観念、負の記憶、感情に覆われてしまい心本来の力が顕われない、
けど覆っている思考を取り除けば、答え、自由、解放、救いは、
はじめからそこにあるという感じです。
考えを離れるには、私は念仏がお勧めです。
南無阿弥陀仏という言葉でなくても
ありがとうでも好きな言葉でもいいと思います。
唱えている時に思考は入り込む余地ありませんから、
ただ唱えるだけです。朝から晩まで、出来るときに
続けていかれるといいと思います。覚悟決めて本気ですれば
大きな気づきはきっと起こると思います。
考えを離れると、自分の本質に気づき、みんな等質、ひとつ、
敵も味方もないということ、いじめはどうして生まれるのか、
いじめるひとの心の中はどうゆうものなのか・・
罪を憎んで・・のこと
いろいろと自然にわかってくると思います。
字数の関係で説明不十分かもしれませんが、もし納得いくまで
ということでしたら、遠慮なくお尋ねください。
https://butujinosoudann.webnode.jp/
質問者からのお礼
願誉浄史さん
ありがとうございます。お答えの意味は分かるのですが、私が言っている意味合いとは異なるようです。妄想ではなく、現実の話。
具体的例:いじめ、戦争
吉武文法さん
ありがとうございます。中途半端に終わらせたくないので、納得できないことなどはこの場を借りて書かせてください。問題があれば仰ってください。
鈴木さんなどの例えについてですが、個人としての彼らを見ていないわけではありません。私にはない良い所を持っていると人々がいると認めています。ただし、シンプルに物事を捉えるその姿勢が時にあまりにも無防備で「個人としての危うさと集団としての危うさ」の両方を強く感じるのです。
そこにアプローチしても馬耳東風なので、結果として人を憎む気持ちを強めたような形です。ですが、これって本当に「妄想」なんでしょうか。「経験則」だと思うのですが、仏教では違うのでしょうか。
人間のある種の想い(原因と結果に因果関係がない非論理的思考など)を「妄想」とする考え方は納得できますが、これもそうなのですか。では、人間の「過去から得た経験」って何なんでしょう。「その時そうだったというだけで、これからもそうだとは限らない」という理屈は分かります。けれど、仏教に「梵天勧請」ってありますよね。「釈尊は悟った教えを衆生に話しても理解してもらえないのではないかと皆に伝えるのを躊躇した」または「どう伝えたらいいか悩んだ」とか。あれは経験則による人間に対する深い考察がないと、そうは思わないのではないでしょうか。少なくとも「衆生の理解力がどれほどか」を多少なりとも知っていなければ、「理解してもらえないかも」とは思わないですよね。でも、それは「過去のもの」、しかし人心は「無常」と説く。ここで、お坊さんの皆さんが言う「妄想」の考え方だと、人心が変わり移ろうものならば、伝える前に衆生の理解力を鑑みる行為そのものが矛盾しているように思うのですが、違うのでしょうか。
私は仏教は好きではありますが、お坊さんたちは本当にこれで納得しているのですか。その点も含めてて教えてください。
吉武文法さん(追記に寄せて)
ありがとうございます。文字数制限があるとのことで、こちらだけが書きたいことを一方的に書き続けるような形になってしまったこと、心からお詫びいたします。ただ、他のお坊さんにも回答いただけるのであれば、締め切りまで待ちたいと思いますので、追記の内容に関しましても書いておきます。
「目の前のその人に対して憎むのか、経験則からその人を見るのか」ということですが、まず過去の経験には登場しない人物をいきなり憎むなんてことはありません。しかし、どうしても人間一般に対する恐怖心は消えませんので、経験則で相手を見ているのかと言われれば、そうだということになります。もしかして「妄想」と仰ったのは、そこが説明しきれていなかったからでしょうか。だとしたら、申し訳ありません。
過去の該当する人に関しては、個人としても集団の一人としても憎んでいます。何故なら、一方的に個人の尊厳が脅かされる事態にでもならない限り、個人だろうが集団に入ろうが、一人の人間として選択の自由ががあるから。自由であるということは、そこには責任が伴います。これを自覚していないと、後になって他者や集団、または一般論という漠然としたくくりに逃げ込んで責任転嫁を始めます。その最たるものがいじめであり、戦前の民主的投票によってファシスト政権を祀り上げた群集心理です。私はこれらの根源的な問題が極端ないじめなどなくとも、普段の生活の中で出会う様々な人間関係の中に存在していることを強く感じます。
今は危うい時代といえども、少なくとも日本には選択の自由がありますよね。なのに、皆それを軽んじている。こういった社会的な事情が、私の幼少期からの経験と深くリンクしているのです。なので、簡単に切り替えられるほどスムーズにはいかないのです。
願誉浄史さん (追記に寄せて)
ありがとうございます。「悩み苦しみの原因を制御するため・・・」とありますが、仰る通りだと心底思います。そのために、ここで質問しています。なので、納得できない箇所を分かったふりをすることはできないし、放置も出来ないんです。実際の生活の中でこういった質問をとことんまでするという機会はありませんので、許されるのであれば出来るだけ甘えさせていただきたいと思っております。
「ものの考え方や見方を結果から逆算して変える」のなら、結論は出ています。それはきっと「罪を憎んで、人を憎まず」というやつだろうと思います。だけど、その方法がいまいち分かりません。他宗教で申し訳ないのですが、仏教にはこれに辿り着く方法はあるのでしょうか。
願誉浄史さん
ありがとうございます。色々疑問は残りますが、楽になる考え方ではあると思いました。
法演さん
ありがとうございます。「本来クリアな心や意識の外側に、多種多様な考えや思考を植え付けて、それを自分の心や意識だと無防備に勘違いをしているから苦しみが生まれる」ということでしょうか。なんとなくイメージが湧いてきました。念仏がお薦めということですが、般若心経に「掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦」っていう謎の呪文が入っているのも、そういうことでしょうか。
取り合えず、理屈ばかり言っていてもしょうがないので、ちょっとやってみます。