先生よりも強くありたい欲
私は、中高一貫校に通っていました。
中学校では私のクラスメイト(私を含む)と担任と物の見事に相性が合わず、心の病気になりました。
高校では、先生自体が怖くなってしまい、2年生まではひたすら先生を観察し、3年生で爆発して、先生を先生とも思わないほど、先生に突っかかっていき、憎み、反抗しました。
今、卒業して3年ほど経つのですが、未だに不意に高校の時の先生を思い出しては罵詈雑言を心の中で吐き、憎んでいます。自分でも現実性のないな、と我にかえることがあります。罵詈雑言を吐きながらも、まだその先生に怯えています。
先生の立場になって考えてみれば、先生は私から発する情報が少ない中、噂しか情報源としてない中、とても頑張っていたんだな、と思い、すごいな、と思うのですが、怖さと憎しみと罵詈雑言は止まりません。
この状態がずっと続いています。
どのようにすれば、先生を怖がらずに過去の人として見れるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
過去ではなく、今の方々に会いましょうよ。学びましょうよ。
私達人間は、人のことを考えるのが大好きなんです。しかも別に考えなくても良い人のことを考えて、考えた方が良い、今困っている人・苦しんでいる人を思うことは少ないのです。
高校の先生は、もう過去の存在ですよね。ある意味、あなたがもう一生会わなくても特に問題は起こらないですよね。それでも先生のことを考えてしまう…スゴイ人だったんだとある意味で尊敬し、そして、また恐怖と憎しみの対象として思い起こしてしまうのですね。
間違いなく、あなたは「今」と、そして来たるべき「将来」を生きるのです。過去はある意味、もうどうでも良いような存在です。高校の先生のことを考える時間を、今の自分を見つめることに遣いましょうよ。また今、あなたの周囲に居る人のことを考えるのに遣いましょうよ。
そして、今あなたの周囲にも先生方、また先輩方がたくさんいらっしゃることでしょう。その方々から、様々なことを学びましょうよ。今直接に会うことの出来るそれらの方々なら、その方のことをあれこれ思う前に、率直にいろいろと聞いてみればよいのです。もちろん丁寧に、又頻度は考えなければならないかも知れませんが、でも疑問に思うことは直接、伺う、尋ねる、それこそ「当たって」みれば良いのです。
若いときは聞いて良いのです。恥かいて良いのです…それらの経験が全て、あなたが今後の人生を生きる上での糧となっていきます。
どうか過去の方でなく、今の方々に会い、尋ね、学んで下さい。
当たり前ですが仏教は「教え」なのです。あなたより遥かに歳を重ねた私も、これからも教えを乞い続けます。
あなたの周囲の方々も皆親切に教えて下さいますよ。
又、このハスノハ僧侶方へもドンドン尋ねて下さいませ…お待ち申し上げております。
瞑想をしてみましょう
日本テーラワーダ仏教協会のホームページに、ヴィパッサナー瞑想という瞑想のやり方が載っています。
同じホームページに、慈悲の瞑想という瞑想のやり方も載っています。
この2つの瞑想を試してみてはどうでしょうか。
心の中で罵詈雑言を吐く時間、怒りの時間、恐怖の時間を、できるだけ短く、また回数も少なくしていく方がよいですよね。
そのためには、自分の心の状態に素早く気付いて感情を落ち着かせる方がよいです。
瞑想は、そのヒントになるかもしれません。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
私は今を生きているはずなのに、過去を生き今を大切にしていないことに気づきました。
すぐにピタっと止めることは難しいですが、「今」を生きることを意識し、苦しくなったら瞑想に頼ろうと思います。
また何か困ったことがあったら、よろしくお願いします。
ありがとうございました。