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去年秋に長男が亡くなりました

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有り難し有り難し 15

去年の秋に水難事故で長男を失くしました。
主人の家系の方で長男が亡くなるのは四人目です。
そのうち水難事故が三人もいます。
なにか因果関係があるのでしょうか?

これは偶然なのでしょうか
まだまだ続くのでしょうか
私の考え過ぎでしょうか?

残された家族が功徳を積むしか方法はないのでしょうか?

普通に生活させていただいておりますが
逆縁は心が癒えることがありません

私がこの世を卒業した時
息子に会える日を楽しみに生きております。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真の功徳はあなたが仏法を求めて悟りを得ることです。

供養・功徳の中で最も尊い供養はあなたが仏になることです。
そういうお話をさせて頂きます。
特殊な話や難しい話ではありませんから、私にはとてもできないとは思わないで身近なこととしてお聞きください。
そういう先入観こそが仏法を聞く際には最も良くないことだからです。
観音経・般若心経のお話をいたします。
「念彼観音力」
観音経に何度も出てくる句です。
「或(あるい)は巨海(こかい)に漂流して、竜魚諸鬼の難あらんに、彼の観音の力を念ずれば、波浪も没すること能はず。」
観音のチカラを念ずるとは、自己の無為無作の心(観自在力)を念ずるということです。
思考の世界から事実の世界に目覚めることです。
それが観音を念ずるということです。
人間は想念越しにものを眺めます。
眺める人によって「思い方」が変わることで人によっては苦しいのです。
だから、その思い方から自由になることが仏教の救いなのです。
お子さんの死はさぞかしお辛かったことと思います。
その苦しみから自由になってください。
お子さんへの最高の功徳はあなたが以下の通り「悟り・正覚」を明らかにすることです。
なぜ般若心経には不生不滅と説かれているのか。
なぜ観音経には彼の観音力を念ずれば諸々の災難が滅すると説かれているのか。
それは事実に生きよということを説いているのです。
人間は思考に生きているものです。
お子さんが亡くなった。こうしてやりたかった。無念だ。悲しい。つらい。いつか会えるまで。なにかできないだろうか。なぜみんな水難なのか。
人はこのように思考・想念・思いの世界で今現実にないものを相手にし始めるものです。
それが般若心経の顛倒夢想というもの。
そして、観音経で説かれるような今現にありもしない最悪の事態です。
人はこの顛倒夢想を想定し、今ないものを思い起こしてまさに災難のような逃げ場のないような心に陥ってしまうものです。
ところが観音経とは「そういう心」(顛倒夢想=今ありもしないこと=過ぎたこと・未来への不安)からの救われる道を説いてくれているのです。
一秒前ですら取り返すことはできない。
一秒後ですら何が起こるかわからない。
念彼観音力。
今の事実に徹すること。今の事実を重んじること。今の事実にのみ目を向けていること。
そうすることで、あなたはお子さんに対する幻の思いに苦しめられることはありません。
合掌。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お悔やみ申し上げます。
合掌

ところで、事故には必ず原因があります。それが因果というものです。四人の方々の事故の原因を明らかにすることです。そして、その原因を今後生み出さないようにご家族や関係者で対策を考えて実行してください。そうする事で事故の原因の発生を防止することができ、今後の事故を防ぐという新たな原因となり、今後事故が起きないという結果につながっていくのです。

いつかまた会えますように。
合掌

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

質問者からのお礼

合掌

ありがとうございました。m(_ _)m

仏になれるよう日々感謝の心を忘れず精進したいと思います ありがとうございました

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