ご仏前の御仏飯についての考え方
御仏飯について、ふと思いついたというか気づいたというか
思った事です。
全然供えずにほったらかしでいい加減な事ばかりの私ですが
最近になって先祖や父親にご飯を出さず自分たちはしっかり
食事をしている。先祖や父親は亡くなっている為、御仏飯が
無くても文句を言う事は無いのですが生きていれば文句言う
だろうなーと思い(自分も同じ立場なら言います。)やはり
毎日お供えしないといかんなと思いました。
各宗派やお坊様の皆様のお考えはどうなのかと思い質問させ
て頂きたいと思います。
よろしくお願いいたします。
楽がしたい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
発露
やっぱ功徳ですよね。
功徳って書くと現世利益・来世利益みたいに誤解されがちなんですけど、プラス評価で考えていただきたいということです。
しなかったから減点!は要らないんです。
やったらやった分だけ有り難し!という発想です。
それこそ無くても文句言う事は無いんですけど、一飯供えれば一飯の善行ですよね。
自分だったら文句言うよなー、やられて嫌なことはすまい。というのも優しさです。善心です。
その善心が『起きる』ということが素晴らしいんです。たとえ百巻の経典を暗記しても、千語の単語を理解しても、この善心が起きなければ何の意味もありません。
何年か前、とあるお婆さんのお宅にお勤めに行くと仏檀の横にLEDの花が置いてありました。私が「いい物をお供えしてますね」と言うと、お婆さんはニコッとして言いました。
「仏さんにも、笑顔をね」
素敵ですよね、こういうの。
どうぞその感覚を大事になさって下さい。
有難いご質問&ご意見です・・・。
あなたの素朴なご質問&ご意見に「素晴らしい!、有り難いな~」と思い、我が宗派(浄土真宗)の考えを書かせて頂きます。
浄土真宗では御仏飯は文字通り仏様に「お食事」を差し上げる、という大事な「仏事」です。
仏様は、お口で「食べる」のではなく、《香り》を(お鼻で)「食べる」と、お経典にも書いてあるそうです・・・。つまり、お焼香をするのも、《良い香り》を出し、仏様にお食事を差し上げる、という意味合いもあります。
従って、ご飯を炊いたら、温かいうち(湯気&香りが出ているうち)にお供えし、お参りした後、直ぐにお下げして、朝ご飯と一緒に頂きます。
当然ながら、合掌して「頂きます(南旡阿弥陀仏)」ととなえ、健康でご飯が食べられることを感謝しつつ、頂きます。
ちなみに、御仏飯を(三角の)円錐状に盛り付けるのは、極楽浄土にある「蓮の花の蕾」をイメージしています。また、円柱状に盛り付ける場合もありますが、それは「蓮の花が咲き終わり、種ができた状態」をイメージしています。合掌 南旡阿弥陀仏
質問者からのお礼
ご回答有難うございます。今後も継続して行えるよう努力し生活の一部として
やっていけるようにして行きたいと思います。