何をしても楽しくない
身内をなくして以降何をしても楽しくなくなりました。楽しいことは一瞬、悲しみは永遠です。1度しかない人生、楽しく生きれたら誰でもいいにこしたことありませんがそうもいかないのが人生。それでも皆、折り合いをつけ趣味にうちこんだりして楽しみをみつけ楽しんでます。
趣味はありますがどれも一人でできることばかりで楽しめはしてもその時だけで持続性がありません。翌日になればまたつまらない気持ちになり楽しかった前日を振り返れません。
身内をなくすまではそうではありませんでした、楽しかったことを振り返れたりお土産などがあれば眺めたりしてましたが今は何か買ってきても袋のまま放置かすぐ棚にいれておわりで思い出してみることはありません。何かだした際についでにみる程度の興味で、買いたいから買った物もそんな扱いで棚みる度、所詮ものは物で私の死後はただのゴミだしと。
周りをみれば皆楽しそうに話したり笑ったりしてます。そういう仲間が誰もいません、年中一人、どこへいくのも何するのも一人。気楽でいいですが全て自分の中だけでおわってしまうので今は何も楽しくありません。
一人の時間が長すぎるのもあるかもしれませんが気のあう仲間がいないならわざわざあわない人といる必要もないので人間関係の煩わしさはなくてすみますが。周りは既婚者と自分よりかなり年上の人たちばかりでちょうどよくあう世代の人たちがいません。サークルも探しましたが継続となるとそこまで興味あるものがなく1つだけ続けてるものは周りが皆おばさん世代ばかりで話があわないとわかったので話には参加せず活動のみの参加です。
人生が全く思い描いたものと違う最悪な人生だから何をしても楽しくないのは当然かもしれないですね、思い通りでなくても少しは希望や願いを叶えた人生ならいいけど全然そうではないので何でこんな人生なんだろうかと。
これからやり直す気力はもう残ってないのでこのままどうにかせめて病気せず生きてくしかないような気がします。能力の限界がみえてるのに頑張っても仕方ないとしか思えません。何かできる才能でもあればよかったですが何もないので。脳科学者が誰も取り柄のない人はいないと言ってましたが自分に何か取り柄があるとは思えず自分にダメだししておわってます。自画自賛できる人が羨ましいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「答え」か「問い」か
どうせこうなるんでしょ?
人生ってこんなもんでしょ?
結局そんな感じでしょ?
という「答え」を自分の中であらかじめ握っていては何をしても楽しくないでしょう。生きることに活力を生み出すのは「問い」です。
自分の「答え」が破られて「問い」が生まれるところに、苦しさや辛さもありながらも、「満足」というものが感じられるのだと思います。
これまでのご相談を拝見すると、身内の方の死というものがあなたの中で本当に大きいものだったのだとお察しします。
「死ねば終わり」といったような考えがあなたの人生から彩りを奪い、モノクロにしてしまってはいないでしょうか?
「死ねば終わり」ならば、なぜ今もあなたは身内の方の死後にこうして多大な影響を受け続けているのでしょうか?死後時間が経過してもなお悲しみの中にいるのでしょうか?
あなたは今もなおその身内の方から受け取っているものがあるのではないでしょうか?
ところで、今日のお昼は何を食べるでしょう?ラーメンですか?そうですね、ラーメンにしましょうか←無理やり
まず、頭の中でラーメンを食べるとはどういうことが考えに考え抜いて答えを出してください。どんな味か、どんな香りか、食べたらどんな気持ちになるか、身体にはどのような感覚が生じてくるか、ありとあらゆることを想定してください。
そして、それから実際にラーメンを食べてみてください。目で、耳で、舌で、鼻で、心で味わい、実際の感覚を捉えてみてください。ラーメンができるまでの全ての過程にも思いを馳せ、食べたラーメンがあなたの中でどうなっていくのかにも思いを馳せてください。
さあ、あなたの「答え」はどうなるでしょうか?
「ラーメン食べるってどうせこいうことでしょ」に過ぎないものだったでしょうか。
追記5月7日
今まで楽しめていたことが楽しめなくなったり、何に対してもやる気がでなくなったりしている場合、
「うつ」の可能性も考えられます。
心療内科やカウンセラーなど専門機関に相談してみるのも良いと思います。
脳・神経の不調、つまりは体調不良が原因の可能性があるので。
追記5月7日
あなたは、「うつ」の可能性については、専門機関に相談されており、その上でお坊さんに相談しているということでしょうか。
それでは、別の角度から回答させていただきます。
あなたは、眼耳鼻舌身意の6つのセンサーに入ってくる「刺激」によって人生を楽しもうと考えているのかもしれません。
しかし、そのような「刺激」の楽しさは、長続きしません。
仏教では、6つのセンサーが受ける刺激(受)の本質は、苦しみだと気付くように観察します。
もともと苦痛である刺激を、錯覚で楽しむ。それはそれで悪くはないですが、楽しみは「バーチャル」な錯覚であって真理ではない。
ですから、そのような一過性の(儚い)楽しみを探し求めても満足できないというあなたの気付きは、ごもっともなのです。(あなたは正しく世界を認識しはじめた。)
あなたは、これからは、儚い錯覚の楽しみに依存する人生ではなく、本当の心の平安を求める人生にチェンジしてはどうでしょうか。
ヒントとしつては、「心は無常である」ということ。
楽しみも怒りも悲しみも、心の感情は一瞬一瞬浮かんでは消え、変化します。
悲しい過去は消せませんが、悲しいという感情は瞬間ごとに生じては消えていってるのです。
感情は変化できるという大前提のもと、心を意図的にコントロールするテクニックを、仏教から学んでいただきたいと思います。
また、自我、「わたし」「わたしのもの」「わたしの大切な○○」というような概念も幻。
頭がつくりだした概念による錯覚で苦悩しているのだと、冷静に見るもう1人の自分を呼び覚ましましょう。
「自分」には取り柄がない。その「自分」という概念がそもそも錯覚。細胞は毎日入れ替わり、心は瞬間ごとに変化し、毎日新しい自分なのですから。
質問者からのお礼
皆さん回答ありがとうございます。身内の死が何年たっても影響してるのは病死や事故死ではないからです。
遺族は死ぬまで、何もしてあげられなかったと悔やみ続けてくことに。思い出す度辛くなり何もできなかった自分を蹴り飛ばしたい気持ちです。何年経とうが後悔はかわることはありません、後悔しても何の役にも立ちませんが、この先同じ立場の人にであったり悩んでる人がいたら経験を話すことはできます、それで思いとどまってくれれば少しは役立つことがあるかもしれません。
ラーメンではなく他の物だったらもう少し気持ちがむくかもしれないです。
通院はしてますがそう簡単によくなる病気ではないです、負のスパイラルに何度もおちその繰り返し、前向きに考えられるようになってればここへ相談したりもしません。自画自賛できる人や前向き思考の人が羨ましいです、どうしたらそうなれるのか。1度しかない人生楽しいほうがいいにきまってますがそうできない人も多い世の中、未来も明るいわけじゃないから前途洋々な人がいたらなんでそうなのかきいてみたいぐらいです。