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機嫌で当たる上司

回答数回答 1
有り難し有り難し 15

こんにちは

直属の上司が自分の機嫌で言い方や物の渡し方が180°変わってストレスを感じます。

前日は上機嫌だったにも関わらず 翌朝は鬼のような形相で機嫌が悪かったり、話しかけるのも遠慮してしまうほどひどい気分屋です。

50代後半なので更年期障害なのかなぁとか、家族と上手くいっていないのかなぁと思っていましたが さすがに限界です。社会人として 自分の機嫌をコントロールして 周りに不快な思いをさせないで仕事するのが当たり前なのでは?

初めは私の仕事振りが鈍くて イライラさせているのでは?発言が不味かったか?とか自分自身を責めていました。しかし先輩方は、「昔からあの様な態度で何人も泣かせていた」 とのことです。

上司も人間なので 虫の居所が悪いときもあるかもしれません。しかし その回数が多かったり、ストレスを感じさせるのは別の話だと思います。

仕事をやめるつもりはありませんが ストレス対処法やこのような人間と接する方法など良いアドバイスを頂けますでしょうか?
またなぜ人は機嫌が悪くなるのか気になります…


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

他人はどうあれこちらは自分を立てないこと

自分を立てるというのは自分の我を起こさないということ。自分の立場や主張を勇ましくしないことです。
ものと見た時、ものに接するとき、人はまだ何も立てていません。
近所の幼稚園児がいきなり「ねぇおじさんだあれ?」と話しかけてきます。
相手がだれであれ何であれ子供は誰にでも心を開いています。
スゲーオッサンがいたら、そのまま素で「かんじわるー」とか「こわーい」といいます。
それが普通ですね。
大人はその後のストーリーが始まるものです。
自分にとってあの人はどうだとかこうだとか。
今目の前にいなくなっているのにいない場所にあってもブツブツ文句を言ったりします。
それは残像です。
実物ならざるものです。
LIVE実況中継をしてみましょう。
本当のLIVE実況中継をするとかつて嫌だったというデータもどんどんリアルタイムで更新されていきます。真実の画像・真実の相手を見ていますから、情報もどんどん変化していきます。
あなたの脳内のそのイカツイ人はまだ過去のデータのままなのです。
そのおっさんと普通に話せる人は一応「この親父ホンットにクズだわー」とか思っているでしょうけど、今日の今週の今月の今年の最新映像の本人を相手にしているので脳内自動更新されている相手を相手にしているのです。あなたが苦しいのは随分前のデータを固定視して最悪なデータだけを相手にしているのでリアルタイムの相手を見ていないということです。
ここを踏まえてJAZZの精神で台本なしに臨むことです。
昨日も風は吹きましたが今日は今日の風なのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございました。お話の中にありましたように、常に新しいその人のイメージを浮かべることで前より大分楽に接することが出来ています。相手に変わって欲しいと願うのではなく、こちらが考え方を変えることが大切なんですね!古い昔のイメージに縛られず 今目の前の相手としっかりと向き合っていきます!

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