友人の死に現実感が無く、悲しい気持ちがわきません
先日高校時代の友人が亡くなったと弟さんから連絡がありました。
亡くなった後、高校時代の友人の連絡先が分からず葬儀までに連絡をつけられなかったそうです。まだ48歳の若さでした。
しかし35歳で肝臓がんを発症し、13年間闘病してよく頑張ったと思います。
33年間友人として付き合い、20代~40歳まで2、3ヶ月に1度は友人4人で旅行に行っていました。その後はSNSを通じ近況を報告しあい、年末年始、GW、夏休みのたびに食事に行くのが恒例になっていました。
亡くなる数日前からSNSの更新が無く、メールや電話をしても応答が無く、心配をしていてもしかしたら・・・という思いもありました。
弟さんから連絡があった後、一緒に旅行に行っていた3人で亡くなった友人の自宅へ行き、お別れの挨拶をして、ご両親と思い出話をしてきました。
しかし遺影、位牌、お骨の入った箱を目の前にしても友人の死に現実感が無く、悲しい気持ちになれませんでした。今でもメールをしたり電話をすれば「おう」と返事をしてくるのではないかと思ってしまいます。
父親や親戚が亡くなった時は葬儀に参加したため、悲しみの感情がわき、死を受け入れることが出来たのだと思っています。
友人の葬儀に参加できなかったことは残念でしたが、ご家族から連絡をもらえてお別れを言えてよかったと思います。でも今でも悲しい気持ちがわかず、自分が冷たいのか、それとも現実感が無いから悲しい気持ちがわかないのか自分でも分からず混乱しています。
友人の死に現実感が無く悲しい気持ちも無いままに亡き友人を思い出したりご両親や友人と故人の話をしたり、気持ちがこもっていないのにお墓参りなどに行っていいのか分かりません。
私は冷たい人間なのでしょうか?。今後どのようすれば友人の死を受け入れることが出来ますでしょうか。それとも今のままでよいのでしょうか。
是非ご意見をいただければ幸いです。
過去に友人に大怪我を負わせ、またイジメで上級生とその家族に性的虐待を受け、相手を石で殴り重傷を負わせました。それ以来自分は本当なら生きている価値の無い穢れた人間だという思考に囚われています。
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友人に感謝の気持ちを
まずは、お悔やみ申し上げます。
33年来のご友人を亡くされたにも関わらず、死を受け入れることができず、悲しみもわいてこない。
そこに違和感を感じておられるのですね。
大切な人を亡くされたのです。
確かに、何らかの感情を抱いてもいいのではないか?と歯痒くもなります。
友人のお葬儀に参列できず、現実として死を受け止めれない可能性もあるでしょう。
でもそれは、人それぞれの感じ方に違いがありますので、私には断定できません。
ところでおんぐさんは、友人の死に対し悲しみを抱かなければならないのですか。
死を受け容れなければならないのでしょうか。
~しなければいけない。
と、強くこだわられているように、私は思うのです。
それは悪い事なのでしょうか。
何も感じないからと言って、お墓参りを遠慮するなんて、本末転倒ではありませんか?
死を受け入れられない、悲しくならない。
そう思われるなら、彼との思い出に感謝するという事もできます。
「ほんとうにありがとうな、いい時を過ごせたよ」
墓前でそう思い、手を合わせられてはいかがでしょうか。
何も、神妙な面持ちでお墓参りや、仏前に手を合わせる決まりなどありません。
自然な気持ちで、ご友人と向き合って下さい。
楽しかった思い出がいっぱい詰まった存在なのですから。
笑って手を合わせても問題ありません。
それがあなたの気持ちならば。
自然な感情で向き合ってこそ、心のこもった供養になるのです。
質問者からのお礼
海老原 学善 様
ご回答をありがとうございます。
確かに悲しみがわいてこないことに違和感を強く感じています。
また、「大切な友人が亡くなったのだから悲しむべきである」というべき思考という認知の歪みに気付くことが出来ました。
今の素直な感情のままお墓参りに行き、「あの時はみんなでバカやって楽しかったよな」、「あっという間だったけど濃厚な時間を一緒に過ごしてくれてありがとう」と笑顔で話しかけたいと思います。
本当にありがとうございます。