夫を亡くしたのに、私は薄情なのか
夫を約3週間前に癌で亡くしました。
闘病期間は約7ヶ月。弱っていく夫を見るのがつらくてたくさん泣きましたが、最期は自宅で看取りました。
ただ、生まれたばかりの子供をしっかり育てると夫と約束したこともあり、子が一人前になるまで頑張ろうと決めました。
今は眠りは浅くとも寝られているし、ご飯も食べられます。
ですが、周囲から睡眠とご飯の心配をされる度に、私はおかしいのかと考えてしまいます。
年単位で立ち直れない方もいるのに、まだ日の浅い私がそれなりに日常生活を送っているのは薄情なのでしょうか。
また夫が夢に出てきたりするのですが、強い思い入れがある人は故人が夢に出てこないと書いてあるサイトを見てしまいショックを受けました。
夫との思い出を振り返ると泣いてしまいますが、それすらも悲劇のヒロインぶって泣いているだけなのでは?と自分の気持ちにすら疑心暗鬼になってしまいます。
配偶者を亡くしても毎日塞ぎ込まないでいられるのはおかしいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そんなこと全然ないですよ。
拝読させていただきました。
ご主人様の若年の逝去に際しまして衷心よりお悔やみ申し上げます。
他のご遺族さま達の心の声を見聞すると自身とは真逆の反応や思いを感じ、罪悪感さえ抱こうとしてしまう気持ちお察しいたします。
私たち僧侶は亡き後、故人さまを葬送することがほとんどですが、ご遺族様の見送り方はそれぞれです。そこには涙を流す人、笑って見送る人、声をたくさん掛ける人、呆然とする人、発狂する人、無言の人。まだまだ数え切れない見送り方をするご遺族様達がおられます。
介護などで心労が限界近く、金銭も不安を期した状態のご家族であれば、悲しみはあるものの安堵している声もあります。交通事故・自死などにより突然の離別がある場合などでは“突然すぎて”感情のコントロールを見失い涙がでないことなどもたくさんあります。
いくつかの実例をあげさせていただきましたが、ユウナさんはユウナさんで主人様の治療・介護に一連托生の思いでされていたことを感じます。
しかし人には「100%」はないのです。その時に全力(できること)を専念した瞬間が100%であり、時が経つと過去を振り返ればそこに100%はなかったのではないか。100%のつもりが80%だった。など思い返せば憶念が脳裏を駆け巡るものです。
「あのとき、ひょっとしたら...」と思う、思い返すは“希望”を捨てなかった証”なのです。
不安は頑張ったけど、足りなかったと思える向上心であり、夢にでてくることや同じ境遇にいる人々の心境をみていくと異なることに不安が一層増しますが、まったくの別の心境であります。
今、お子様が誕生されご主人様の宝を引き継がれたことをしっかりと約束されながら育児されていくことで、ご主人さまから必ずといってよいほど仏からのメッセージを受信できます。子が成長する度に、お子様は父母に顔や仕草に声なども似てくるものです。
数年した時にふと「頑張り過ぎた」「悲しみと向き合わず強く生きることに少し疲れた」瞬間に“悲しみと涙が溢れるものです”
どんな境遇におかれても悲劇でもなく、仏様と成られたご主人様は見守っています。
合掌の意味を最後にお伝えします。
「右仏、左我ぞと合わす手の、内ぞゆかしき南無のひと声」
※現代訳にしますと
仏さまと成られたご主人さまは遠くにいるのではなく、合掌すること、合掌する度に、心の中で生き続けている。
合掌
質問者からのお礼
私の心に寄り添って頂きありがとうございました。
育児をしていく上で夫からのメッセージを必ず受信できる、遠くにいるのではなく合掌するたびに心の中に生き続けている…この言葉を励みにこれからも頑張ります。
ありがとうございました。