父の死に対して、自分がわかりません
一昨日の晩、父が亡くなりました。
父は四年ほど前に脳梗塞で倒れ、半身麻痺と高次脳機能障害を患い、会話もできず、話しかけたことに反射的に頷くだけの状態になってました。
意思疎通ができているのか分からない状態でしたが、少しでも良くなれば、と思い、入院していました。
最初の1-2年はリハビリも出来ていましたが、3年目になってくると面会に行っても眠っていることが多く、一方的に話しかけるだけになってました。
1年前、コロナの予防のため面会が出来なくなり、月に一度、15分のビデオ通話をしていました。
一昨日の夕方、父の容態が急変し、今際の際で「ありがとう」「よく頑張ったね」「お父さんの子供に生まれてきてよかった」と本心から伝えました。
そのせいか、まだ二日目だというのに「やり切った」という気持ちがあるのです。
「父はよく頑張った」「私も、家族もよく頑張った」という気持ちが出てきてしまってます。
こんな早く、割り切り始めている自分がすごく嫌です。
大好きだった父への想いはそんなに浅いものだったのか、と自分が信じられません。
実は、二年前、母が介護鬱を発症しました。
今も自宅療養をしていて、一日中ベッドから起きれない日も多いです。
母が重度の鬱になったのを「父が倒れなければ」と思ったこともあります。
母を自宅で看ながら、父の面会に行く忙しさにイライラしたこともあります。すぐに「そんなこと考えて死んでしまったらどうするんだ!」という気持ちが出てきて、イライラは消えるのですが、その瞬間は確かにあったのです。
また、これは完全に自分の責任ですが、仕事、看病、面会、各種手続きなどで疲労が溜まっていたせいか、一年ほど前に、事故を起こしてしまい、罰金刑を受けました。あの日あんなに疲労していなければ、と時々思ってしまうのです。
(お相手の方を骨折させてしまいましたが、命に別条はなく、リハビリも終えられているとのこと)
それでも、父に会うたび、今際の際で「良い人生だった」と思って欲しい、そのために何かしてあげたい、という気持ちが湧いたのも事実です。
父の死が悲しいのか、よく頑張ったと見送れる気分なのか。
今抱えている悲しさや悔しさは、父の死に対してなのか、「父の死をきちんと悲しめない善き人ではない自分」に対してなのか。
私は人として間違っているのか。
今、自分がわかりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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間違ってないですよ
お疲れ様でした。
看病大変だったと思います。正直ホッとしている部分もあるのではないでしょうか。
これは薄情なわけではないですよ。それだけ大切に愛情を注ぎ看病してきたということです。そして、お父様はこれだけ時間をかけてお別れの覚悟をさせてくれたのです。
コロナで直接会えない寂しさもあったことでしょう。しかし、できることの精一杯をやりきったのです。
お父様は仏となり、あなたのそばでありがとうと感謝を述べているのではないでしょうか。あなたも、気持ちを伝えることができたとのことでよかったなあと思います。
亡くなったことは寂しさもあることですが、お父様が残された学びや、思い出は残されたご家族の大切な宝物になったと思います。
本当にお疲れ様でした。そして、哀悼の意を表します。
合掌
質問者からのお礼
邦元さま
お礼のお返事が遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。
投稿の後、各種手続きを行い、先日、父の葬儀を執り行いました。それまでは、投稿文にも書いたように、どこか「やり切った」という気持ちが大きかったのですが、いざ、納棺から葬儀、火葬までを行うと、自然と涙が出てきました。
「父に精一杯のことをしてきたつもりだけど、至らないところもたくさんあった。父は幸せだっただろうか。寂しい思いをたくさんさせてしまった。私は本当に父に尽くせただろうか」と、後悔の念もたくさん出てきて、半分は悔し涙だったと思います。
けれど、どんなに尽くしていても、親が病気で亡くなるとこうして「あのときああしていていれば」と後悔するのだろうな、とも思う気持ちも出てきました。
邦元様の「薄情なわけではない」というお言葉に少し心が軽くなりました。
父は家族をとても大切にしてくれたので、父の供養をしながら、まだ療養している母を父の分まで大切にしていきたいと思います。
ありがとうございました。