身近なものを愛せないし死が悲しくない
今日知り合いの友人が亡くなったとLINEで来ました。学生の頃からの友人で多分40歳くらいだと思います。
辛いだろうなと思いつつ気持ちが分からず、とりあえず、「かわいそうだね。無理せず頑張って」と送りました。もっと何か言えないかなと思いながらもそれしか思い浮かびませんでした。その人が、人と時と場合によって性格が変わり、仲良くしてる人でも悪く言う人なのもあるかもしれませんが。
昔は思ってなくてもどう言ってあげれば相手が喜ぶかとかよく分かったのですが、今はさっぱりわかりません。
35歳ぐらいに自分で飼った2匹目のねこが死んだあたりから、ペットも含め誰かを愛せませんし、身近な人が死んでも多分悲しくないと思います。
だからといっていじめたりはしません。そうゆうことは嫌いです。
猫が死んだときホントに悲しくて、主人が寝れるのもご飯が食べられるのも理解できませんでした。
でも、今は夫婦して親から絶縁されており、今飼っている猫に依存している主人は、多分何もできなくなって仕事も辞めるかなと思います。何日もなくかもしれません。
それを思うと私は今から面倒です。
私はおかしくて冷たいでしょうか?
今友人を亡くした知り合いに、この先猫を亡くして絶望する主人に、なんて言えばいいのか、どうしたらいいのか、全く思いつかなくて困っています。というか不安です。
不謹慎な質問かもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そっとしておく、見守るということも、思いやりになる。
なんて言えばいいのか、どうしたらいいのか。そうですよね、こればかりは当事者にしかわからない感情が起きますし、想像はしてみても、その時その状況に置かれてみないとわからない(見えてこない)のだろうと思います。ですから、あなたが、わからないとおっしゃるのも当然だし、薄情なわけでもないのですよ。ましてや、相手がどれだけの関係性や時間を重ねてきたのかも知らないのに、何とも反応のしようがありませんものね。
私は、いろんな人の話を聞いてきましたし、相談も毎日のようにあります。そんな時は、相手の立場になって想像します。そして、なんて声をかけたらいいのかわからない時でも、相手が辛かったり苦しかったり涙する時には、黙ってそばにいたり安心できるように関わります。ホッと出来るようなね。そこには、気の利きた言葉や励ましは必要がないのだと思いますよ。ただ、あなたに、大切に想っています、心配しています、味方でいます、という気持ちがあるのなら、それをお伝えされたらいいと思いますよ。あとは、そっとしておく、見守るということも思いやりになりますからね。
酒や薬に依存しないように自己愛や依存愛を超え、個の尊厳愛へ。
これはあなたや誰かを責めるものではありません。
絵に描いたような理想的な愛情関係の中にあって、それが無くなると「自分(主体意識)が」苦しいのは当然です。それが失われることで頼る先がなく、何も手につかない。ですが、ご夫婦の結婚当初に立ち返ればペット重視になっているのもどうなのかと。
本当は何が失われたのか?本当は何を優先するべきだったのか。
そこに向き合う必要があると思います。いわゆるペットロス症候群というより、無自覚ながらの私的な条件付けの愛が自分を苦しめていたと気づけると人は解放されます。喪失感の正体は、実は失われたのは相手ではなく自分の内なる仮想理想ビジョン。自己設定、マイルールの喪失。
また、人は辛いことがあると防衛心理から何も感じなくなる麻痺の心理に向かう。
だからこそ、向きあうべきことにもう一度向き合う。
「こうだったらよかったのに。でも現実は違うから苦しい。」
自分も含めて人類誰もがみんな不完全。その不完全もを愛するのです。親や伴侶に自分以上の高い人間性を要求して現実は変わならいなら同じ弱者の目線に立つことです。同事。愛するペットへの喪失感も、ちゃんと命の尊厳を讃えて感謝してお送りしましたか?動物だって誰のものでもない。あなた「の」ではない。ペットに対する愛情心理そのものを自分で学ぶべきでしょう。人間が相手であれば人間同士なので損得勘定や好き嫌いが生じる。ペットは無条件で人間以上の愛着がうまれ、相手は動物なので何でも言える。人間だったら言えない・許せないようなこともできてしまう。故に猫に対する愛は自己愛がベースになりやすいのです。飼われていた猫や旦那さん目線で愛の名の下にフリーズするその愛のありかたが本当に愛なのか?もう一度考えてみてください。
ネコちゃんからすれば🐈(´-`*)…おいおい、私はもう死んだんだよ。だけど、まだ喪失感にしばられてるの?それじゃ、こっちも安らかにニャらんわ、死んでも縛るのかい?🐈
主役が自分過ぎる気配や❝私過ぎる❞意識を自分で気づいて滅する。わたくし目線で私はネコちゃんを愛していたのに…、というような自分の描いたストーリーに固執してしまっているようにも受け取れます。人も猫も誰も死は選べません。親も選べません。猫の死も猫の死が主人公。わたし「の」という首輪をお互いに外すことでお互い解放されるのです。それを個の尊厳と申します。
質問者からのお礼
お忙しい中御回答ありがとうございます。
気持ちがあり、そばにいる。
そうですね。無理に何か言ったりしなくても何か役に立っているのかもと思ったら少し気持ちが楽になりました。
いつもここで相談させていただき、その度に救われております。
ありがとうございます。
朝や夜はだいぶ寒くなってきましたので、お坊様もお体に気をつけてお過ごしください。
ありがとうございました。
御回答ありがとうございます。
少し難しいですが、ハッとさせられました。
個の尊敬ができるように、少し自己主体を考え直し、本当に愛か考えるようにします。
ありがとうございました