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座禅のこと

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有り難し有り難し 34

自分は剣道をやっています
ここ最近 先生に お前は面をかぶると 目が充血するな と言われました それで 落ち着けといわれて 頑張っています。
でもうまくいかず 困っていると 座禅のことを思い出しました
そこで質問です
座禅はどのようにやればいいですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

禅僧です

剣道でも坐禅でも何でもそうですが、誰にも見てもらわずにいつも1人で稽古をしてばかりでは、変な癖が付いてしまうものです。そして長く続ければ続けるほど、悪い癖を直せなくなってしまいます。
ぶっちゃけ坐禅でも独学で変な方向に突っ走り、目を充血させながら坐ってるような自称ベテランやオタクはそこら中にいます。

とりあえずネットでやり方を調べて自分なりにやってみるのではなく、坐禅会を開いているお寺を探し、ちゃんとした指導者に見てもらいながら習った方が良いですよ。何のために坐るのか…というのも込みで。

そうやって手間暇をかける事に慣れることが、自分を冷静に保つ力を身に付けることにもなるでしょうしね。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

事や思いに心が動かされている

剣道は相手の動きに応じて動きますが、その根底にあるのは自身です。
ものを見てものに応じて体の動きに任せて応ずる。
人間の活動には私が自分で「やっている」ことと、自己の本来身が反応して「行われる」ことの二つがあります。
この行われるというのは、習慣であったり、自然の反応であったり、自分が自分の意志でやろうとしていないレベルのものです。
あなたはおそらく「自分が」やろうとしている面が大きいのだと思います。
無心と無心と世間ではよく言われますが、それは厳密には無私心です。
カラッポのことではなく、ワタクシ意識の絶せられた自身の本来の心のありよう。
稽古というものは相手がだれであっても同じことをやるでしょう。
相手が先輩であっても後輩であっても自分より強い人であってもただルール通りに為すべきを為す。
その時には条件付けが無いはずです。
私の中でこう思った相手とか、この人は自分より強いからうんぬんとか、条件付けが無いはずです。
そういう無私、条件付けのない処。
私がやろうとしないところに剣道そのものを学んでみてください。
剣道とは剣を学ぶものばかりではありません。
この自己を明らかにするものです。
道というは最上無為。
人間本来の力の抜けた様子です。
かちまけや強弱優劣の無くなった無条件の剣術には心は動じなくなるものです。
坐禅とはそういう相手の意無くなった様子。
自己意識、能動意識のなくなったこころです。
動きの中において、私、わたくし、自分自分したものを捨ててみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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