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死と宗教について

回答数回答 2
有り難し有り難し 26

私はキリスト教と仏教のもとで育ちました。
学校はキリスト教で、お葬式などは仏式が多かったです。

ハスノハは、非常に説得力がある意見もあり、頼っています。
仏教の話もキリスト教と同じかそれ以上好きです。
しかし、キリスト教的な祈りが一番馴染むのです。

古典的な宗教は、同じこと、人間の本能に従って考えつくされたもので、共通するものがたくさんあると思っています。

天の国を悟りと考えたいのかもしれません。

邪道と言われる方もいると思いますが、
父母もキリスト教を信じていた時期もあるので、
僕がキリスト教で育つことになったのですが、
今の両親は、無宗教に近いです。
既存宗教に疑念を感じ、個人の問題と考えている感じで、
ぼくも似ています。

しかし、葬式をどうするかという話がずいぶん前に出たのですが、
家族の意見ががバラバラだったのです。

親も老いてきて考えると、
仏教を信じて、「悟りの中に救われて」亡くなっていく人と、
キリスト教に肩入れしながら、天の父に迎えられると思いながら去っていくことが、
違うものであってほしくないと思ったのです。

母は、無宗教で、自然に返るかのように楽になりたいと思っています。
父も、曹洞宗に肩入れしてますが、似た感じだと思います。

キリスト教に肩入れしている自分だけべつな場所に行くような気がして非常に寂しいです。

これをどう思われますか?

これからも続く人生、いつ死ぬかわかりません。
死んでも共にいられる・・・というような安心感が欲しいのかもしれません。

それは、宗教的な問題ではなく、日常で考えるべきことで、いま寂しいだけかもしれません。

考えて行こうと思いますが、
何度か考えたことなので、ご意見を伺ってみたいのです。

1人の凡夫として諭していただけたら
本望かと存じます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

姑息かもしれませんが、「玉虫色で」もいいかも。

 曹洞宗の吉田俊英と申します。

 仏教の来世観は、死にゆく人を安らかに旅立たせ、来世での日々を暖かく見守ってあげるものだと思います。私はそう信じております。そして、仏教の葬送儀礼は死にゆく人々に安心(あんじん)を与え、残されし者に安らぎを与える。そういう信念に基づいて、お檀家さんたちの葬儀や追善供養に努めています。

 ご質問される意図については、よくわかります。人それぞれの価値観を持ち、人それぞれの信仰をもちます。親の信仰を尊重しようという気持ちを持っていても、あなた自身が納得できるとは限りません。本当に真摯な気持ちで親のことを考え、自分自身の信仰にも向き合っておられるのだと思います。

 非常に姑息な回答であることを自認しつつも、それそれの信仰や信念を尊重するためには少々姑息な手段も止むを得ないと思います。

 或る檀家さんが亡くなりました。その方はいわゆる「後添え」の方であり、夫は結婚後数年で亡くなり、亡父と先妻が養子に迎えた方とは種々軋轢がありました。長生きした分、若干若い養子さんたちを見送り、晩年を迎え息を引き取りました。養子の子が喪主を務めましたが、故人は平素よりプロテスタント教会に通い洗礼を受け教会のメンバーにもなっていました。故人は生前「自分の葬儀は教会で行って欲しい。」「遺骨は無く夫と同じ(菩提寺の)墓に納めて欲しい。」という希望を伝えていたそうです。それで教会で葬儀を行い火葬したそうです。火葬後、御遺族がお寺に相談に来ました。
 私は御遺族に「故人の信仰を尊重して教会で葬儀したことは止むを得ないことだと思います。故人の信仰を尊重してあげたいと思います。但し、この寺の墓地に遺骨を埋葬するとなりますと、話は違ってきます。何故なら、故人の信仰は尊重されるべきものですが、同時にこの寺の境内や墓地に於いて、曹洞宗という仏教寺院である寺の尊厳も主張致します。主張できるのです。

 お父様の信仰が曹洞宗に在ったのでしたら、その信仰を尊重して仏教の葬送儀礼で見送ってあげれば良いと思います。その後の中蔭供養や年回法要の場において、自分の信仰からみれば違和感を感じるならば、クリスト教で供養するのも止むを得ないかもしれません。

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有り難し
おきもち

 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努め...
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出会いはそれぞれです

拝読させて頂きました。
人により宗教感は違いがあります。まして成長する過程での出会いや生き方によっても違います。そして生きる時代によっても違います。
また生きる世界によっても違います。
海外に出てみると無宗教と言うと人間性や人格を否定されてしまいます。
何も信仰がないと言うと人として信用されなくなってしまいます。
ですから日本人の無宗教という言い方は日本国内だけの観念でしかありませんからね。

あなたにとってキリスト教との素晴らしい出会いがあり、信仰心を持つことができるならば、それはあなたにとってとても素晴らしいことです。
そして宗教は人を救うことができる力があるのですからね。

また人それぞれに宗教に出会う時期は様々かと思います。生まれながらの方もいれば、死の間際になって出会うことができる場合もありますからね。

私達にとって死は決して終わり、ジ・エンドではありません。そこからが次のステージですからね。

ご両親様にとってもこれから生きていく中で様々な出会いが恵まれるかと思います。まだその時期ではないのかもしれませんからね。

それぞれの人生や在り方でも良いかと思います。

本人の状況や置かれた立場や気持ち次第で、馬の耳に念仏から藁をもすがる思いに変わることもよくありますので。

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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

ぼくの、とりとめもない文章に
静かに答えてくださって、
とても感嘆いたしました。

以前にもお応えいただいてますよね、あずま僧侶さま。ありがとうございます。

心が穏やかになりました。

毎日の惰性から、家族との気持ちの距離がはなれていましたが、折りを見つけて、
それぞれを尊重しようと思います。

母も本を読んだり、試行錯誤しております。

それぞれを大事に、そう心に持っておきたいです。

吉田僧侶さま。
玉虫色、たまに父もいいます。

父母ともいろいろ言ってますが、
祖父母が入っている宗派のない霊園に
入ることは、意見一致しています。

死に際まできちんと話せるといいなと思います。

ぼくはクリスチャンではなく、洗礼を受けていない求道者なので、融通はききます。

父が教会葬を望んでいるが、母が教会にいまさらどう頼むの、と絞られて、
曹洞宗で、という意見に変わったので…

まあ年がら年中葬式の話もなんですし、
最善を尽くせるチャンスを見つけていきたいです。

ご回答ありがとうございます。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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