hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

四十九日が過ぎました

回答数回答 2
有り難し有り難し 14

彼氏の四十九日が昨日でした。家族の方に聞いて行こうかと思いましたが、お正月元旦だし電話などをする勇気もありませんでした。よく分からないので、自分の部屋でお水とお茶をまた入れ直して、線香を一本しただけです。
以前から亡くなった彼の事でここで書かせてもらっていて、厳しい言葉も優しい言葉もいただきました。
彼のまえに長いこと一緒にいた人の所で最近そばにいてもらっています。
彼氏が亡くなるまで本当に短い時間で思い出も少ないし、急に悪くなって何にも言ってくれずに逝ってしまって。
本気で愛していたなら、言われたようにあのまま一生1人きりでいたらよかったのかもしれませんし、それに私もこれから人を愛せるのか自信もないし。こわいんです。
今、一緒に居てもらっている人とは昔は好きあっていましたが、何年かまえから色々な事情やすれ違いで結婚もないし、ズルズルと一緒に居ました。
それで、この夏くらいに亡くなった彼と急激に仲良くなってお付き合いすることにしました。

話しもあんまりできないままだったので、亡くなってから色々と彼のまえの奥さんの行動やらで、私はやっぱり女だし本当に辛かったです。悲しさだけでは過ごさせてもらえなかった。彼の気持ちが信じられなくなったり、憎んでしまいそうになったりして。今でも本当はどう思っているのかどうしても聞きたい。

死んでしまった人に聞けるとも、会えるとも本当は思いたいけど思えません。
生きているものの方を大事にしないといけないとゆうのも昔からあったりして、だからいい訳にはしたくないのだけど、私が他な人と一緒に居ながら彼を忘れられないのは、自分勝手で裏切りでただの我が儘でしょうか?
いつも長文ですみません。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心のうちに仕舞い込む

奥の奥の奥底に仕舞い込む。
それでいいでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

自分で物語を作らない 真実と共に歩む

真実は物語や情報、お話の以前にたった今も目の前にあります。
冷たく聞こえるかもしれませんが、これは本当です。
たとえば、今、彼がどうしているか、どうしているだろうか?と考える事、思索することは想像であり、物語を作ることです。それは真実ではないのではないでしょうか?
それはあなたがそう思いたい物語であるからです。
本当の真実は、彼は生命存在としては、消滅してしまっていても、あなたは彼を感じることができるはずでしょう。べつに、別々になった訳ではないでしょう。
それも、あなたの中で思い描いた物語なのです。
真実の上では、この世界で同時存在してます。
意識されなければ、それは忘れ去られている。
意識し続けたり、亡くなったのにどこかにあると思い込むことは、真実と相違するので苦しみになります。
真実は、今彼はあなたが知覚できる形では存在しないけれども、あなたは彼を感じることはできる。
そういう感性を引き出すことで孤独感は消えていきます。
あなた自身が彼とのかかわりを物語を創造して、彼の永遠存在を否定してはいけません。
こうして仏教のページがあるという事はお釈迦様も亡くなっても生き続けているという事と言えます。
お釈迦様は「終わって」いないのです。彼をあなたの中で、あなたの物語の中で「終わり」にしていませんか?「終わり」にしないことで、あなたは彼を感じることができるでしょう。亡くなって49日を迎えられたにせよ孤独もなくなるでしょう。手を合わせて彼のありようの変わった命を感じ取ってみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

けんしょうさん、このような時間にありがとうございます。
そうですね、しまい込むしかないような気がします。

丹下さんありがとうございます。
彼を感じとれる感性が無いとも有るとも自分でわかりません。独り言や心の中で彼に語りかけたり、文句を言っても何をしても今は非常に寂しくしんどいです。違う事を考えて紛らわそうとしても、、本当はそばに居て欲しくてたまりません。かれの温もりや魂を感じられたら、または感じると思いこめたらこんなに寂しくないのに。。
でもやっぱり抱きしめて欲しいし、話したいです。

時々胸が締め付けられるように息が上がったりして立っていられなくなったり、お酒に逃げたり。
それでも生活がありますし、私は精神病になったら仕事ができないから、なんとかごまかしながら自分と戦わないと。

すみません、私だけが苦しいなんてほんとに思っていませんし、苦しみのない現世はないでしょうね。なんのための勉強だったのか彼が私に与えてくれたものは何なのか、もう少し心が泣き叫んだ後から少しずつ彼からもらって行きたいと思っています。
皆様には度々、私事の悩みで申し訳ありません。でも、思いを聞いてもらえる場所が何より今はありがたく感謝しております。またここで書かせて下さいお願いします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ