なぜ南無阿弥陀仏と唱えるのか
いつもお世話になっております。
また新たな疑問がありまして、質問させていただきます。ご回答、アドバイスを頂ければ幸いに思います。
私の家は浄土真宗なのですが、なぜ浄土真宗では 南無阿弥陀仏とお念仏を唱えなければならないのでしょうか?
死後にお浄土に生まれさせて頂くため?
今現在の悩みや苦しみを解決して頂くため?
まだまだ40代と若く?自分が死ぬことがなかなか実感として沸いてこない年代なのですが、
どういった心持ちで日々南無阿弥陀仏のお念仏を唱えていけばよいのでしょうか?
良きアドバイスを頂ければ幸いに思います。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏弟子としてのアイデンティティー
"なぜ浄土真宗では 南無阿弥陀仏とお念仏を唱えなければならないのでしょうか"
浄土真宗のご本尊が『南無阿弥陀仏』だからです。
真宗門徒が最も大事にすべきは、阿弥陀佛を南無するという「行為」です。
”死後にお浄土に生まれさせて頂くため?”
そうです。
死後、極楽浄土という仏道修行の妨げになるものが一切ない世界に渡り、心置きなく修行して悟りを開き、いよいよ仏となるためです。
”今現在の悩みや苦しみを解決して頂くため?”
んー、そいつぁーどうかな。
南無阿弥陀仏と唱えていたからといって、たちまちに苦悩が消えてしまうということではないでしょうね。しかしながら、お念仏を唱える日々の中で、将来、極楽浄土に入れてもらえることが決定済み=私はすでに【仏弟子】なんだ!!(お坊さんにならなくても)という自覚が生まれると、それがあなたを必ずや支え、励まし、慰め、戒めてくれる事でしょう。
貧困、戦争、飢饉、差別、、、、ありとあらゆる苦悩の中で、このお念仏を頼りに必死に正気を保って真面目に生きた人々を、元来、【真宗門徒】と呼んできました。
公序良俗に反しない範疇で結構ですので、何卒、お念仏の声がする生活を送ってくださいませ。
南無阿弥陀仏
若葉さんにこの問いが起こったことを大変うれしく思います。
是非ごまかさずにこれからずっと問い続けていってくださいね。一緒にお念仏しながら味わって参りましょう。
お尋ねの内容については下記の過去質問でかなり言い尽くされている感があるのでリンクで失礼します。
南無阿弥陀仏をおとなえする意味について
https://hasunoha.jp/questions/11991
さて、この問いをどう解釈しようと、何はなくとも大切なのは実際にお念仏申すということです。
お念仏の説明は「お念仏の説明」であって「お念仏そのもの」ではありません。
若葉さんにとっての「お念仏そのもの」とは若葉さんがその口で申すお念仏であり、その耳で聞くお念仏です。
お念仏が死後の救いならばお念仏の教えは生きた宗教ではなくなってしまいます。
お念仏が今現在の悩みや苦しみを解決するためのものならそれは便利グッズや免罪符のようなものになってしまいます。
悩みながらでも、苦しみながらでも、ただお念仏申す。そこにすでに死後の救いも今の救いもおさまっているのでしょう。
お念仏申す時、私の「悩みや苦しみが解決する」のでなく、「悩み苦しむ私が救われる」仏道としての念仏道が今、あなたに、私に成就しているのでしょう。それは具体的に言えば、「私が私の姿に目覚めさせていただく」ということではないでしょうか。
南無阿弥陀仏
今が臨終の瞬間かもしれない
日本の浄土宗の元祖である法然上人は、常に臨終のつもりで念仏しなさいと言われました。
たとえば、就寝前、今目を瞑って、次に必ず目覚める保証はありません。
道を歩いていて、いつ事故に巻き込まれるかわかりません。
ですから、「今・ここ」の一念(一回の念仏)が、最後臨終の一念になるかもしれないのです。
悪行三昧で人生を過ごしてきた人で、臨終時には心乱れて仏様を想い浮かべることさえままならない人でも、臨終近くに口で南無阿弥陀仏と念仏すれば、必ず極楽浄土に往生できる(阿弥陀仏仏が迎えに来てくださる)と言われています。
今が人生の最後かもしれない。
しかし、お釈迦様が説かれたような修行(善行)は充分ではない煩悩まみれのこの身。
もはや「南無阿弥陀仏」にすがるしかない、という気持ちで念仏します。
極楽往生の目的
若葉様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
拙生も拙寺のご本尊が阿弥陀如来様であり、また平安期以降、日想観を修する浄土信仰の盛んであったお寺でもあることから、浄土思想も重んじて、お念仏申し上げております。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀如来様への帰依をこめるところが強くあるものと考えております。
ここからは、あくまでも拙生の考え方となりますが・・
まず、悟りへと至るためには、一切の例外なく、必ず二つの条件を調えることが必要となります。
その二つの条件とは、「智慧」(真理を悟る力)と「福徳」(功徳・方便行の力)であります。
この二つの条件を調えるために、まず何よりも私たちは仏法僧の三宝に帰依することが求められるところとなります。
そして、菩提心(皆を救うわんがために悟りを得るのだという強い決意の心)も起こして、仏道を進めていくところとなります。
しかし、本来であれば、仏陀・如来から直接にご指導を頂くことができれば、誠に有り難いところとなるのですが、この娑婆世界には、釈尊ご入滅以来、仏陀・如来はご不在となってしまっております・・
確かに、娑婆世界でも、釈尊の残された教えである仏法(仏典)と、それを理解している偉大な高僧先師方による教えなどを頼りとして仏道を歩むことができるのですが、それでもやはり限界があるのであります・・
そして、悟りへと至るためには、必ず最終的に、直接に仏陀・如来にお会いする「見仏」と、悟りへと向けた直接の指導としての「授記」が必要となるため、いずれにしても娑婆世界ではなく、仏陀・如来の在世されている仏国土・浄土へと赴くことが求められるのであります。(もちろん、娑婆世界でも56億7千万年後には弥勒菩薩が如来となられて下生されることにはなるのですが・・かなり待たなければなりません・・)
その赴き、ご指導を賜れる先の一つとして、釈尊は阿弥陀如来様の極楽について私たちにお教え下さっているのであります。
阿弥陀如来様への信と称名お念仏は、極楽往生へと向けて、己を調えるために大切なものであると考えております。
その調えるところには、当然に仏教の基本的な実践も含まれてであると存じます。
その仏教の基本的な実践からも、もちろん、現実の悩みや苦しみを解決するのに十分に資するところであると考えます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
拝啓吉武文法様。
この度は良きアドバイスを頂きまして、誠にありがとうございました。
過去の質問もご紹介下さり、ありがとうございました。
色々と悩んだり苦しんだりする我が身でありますが、お念仏を唱えさせていただいていると、その悩んだり苦しんだりしている事柄自体が解決するのではなくて、悩み苦しんでいる私の気持ちが楽になるという、心の重荷が軽くなるということでしょうか?
吉武様、この度は誠にありがとうございました❗
転落院様、願誉浄史様、この度は良きアドバイスを頂きまして、誠にありがとうございました。
まだまだお念仏を唱えることが自然に出来ない身ではありますが、なんとか良き習慣にできるように日々努めていきたいと思っております。
お念仏を唱える生活の中で、いつか自然と信心が沸いてくれれば有り難いと思います。
この度はありがとうございました。
拝啓川口英俊様、この度は良きアドバイスを頂きまして誠にありがとうございました。
毎日お念仏を唱えさせていただき、ゆっくり、自然に信心がわきあがってくればと思っております。
今後ともご指導よろしくお願いいたします。
拝啓川口英俊様、この度は良きアドバイスを頂きまして誠にありがとうございました。
毎日お念仏を唱えさせていただき、ゆっくり、自然に信心がわきあがってくればと思っております。
今後ともご指導よろしくお願いいたします。