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長男を出家させたいのですが

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有り難し有り難し 64

こんにちわ
長男は発達障害があり、就労しておりますが、
日々疲労困憊して、苦悩の日々をおくっております。
なかなかむずかしいとはおもいますが、

仏門での修行によって、
克服できないかともおもいます。
なかなか本人をその気にさせるのも
難しいのではありますが、
まずはその可能性が
つまりその気になれば、修行する道があるかどうか?
を、お聞きしたいです
よろしくお願いいたします
伊藤 寿 


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏門の修行を誤解されていると思いますが

この問題はご長男の問題というより「あなた自身が長男を何とかさせたいという思い」にとらわれているあなたの問題ではないでしょうか。
ご心配なのはもちろんわかります。
それにそもそも仏門というものはどこにあるのでしょう。
仏道というものは何をするものでしょうか。
最初から何か特殊なものを思い描いてそこに入れりゃ何とかなるように思っていたり、最終的にダメなら出家でもさせるか、程度な感覚で仏門というものを誤解してみておられませんか。
その前に必要なのは親子の真の語らいであったり、親の押しつけや理想を相手にぶつけるような日本の家庭でどこにでも見られるケースを改めることや、息子さん個人の意思の尊重や、親が子供をコントロールする姿勢を止めることや、本当の語らいなしに親がこれ良かれと本人のいないところで進めるより、本当にコミュニケーション、意思疎通、語らい、心の興隆がきちんとあなたと息子さんとで「できているか」を問うべきではないでしょうか。
レンタルビデオで映画「シャイン」を借りて観てみてください。
お子さんがお父さんのあれしろこれしろの重圧でパンクしてしまう。
子どもは本当はお父さんのことが大好きでお父さんの期待に応えようと一生懸命にこどもという性(さが)として一生懸命こなそうとする。なのにお父さんはどうして僕に僕でないものをもとめるのか。どうして僕を僕としてではなくお父さんが思い描いた息子像をしいるのか。
ご覧になられたとしても、もう一度ご覧になられることをお勧めします。
親子というもの、父と息子というものは「本当はどういう関係であるべき」でしょうか。
お金があったり社会的な成功が無きゃいかんですかねぇ?
そこをお父さんであるあなたがよくよく弁えられて世間が尊敬するような立派なお父さんになることがまず人生の先輩として見本を示されるべきことではないでしょうか。
あなたの父親としての年齢はまだまだ年数的にも関わりのあり方としても(みな誰もがそうですが)まだ未熟なのだと思うべきです。その謙虚さ、その低姿勢な関わりのあり方。そっちに進まれることで、自然とお子さんに対してもっと良いかかわり方、あり方が見いだされてくるのであろうと思います。生意気を申し上げましたが、私が自分の父や世間の父親をみながらそう感じております。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

悩み苦しみがなくなりますように

仏教を学んでも、発達障害を治すことは難しいかもしれません。
それでも、仏教が、人生の悩み苦しみやストレスを軽減するヒントになる可能性はあります。

現在の日本では、出家といえば、プロの僧侶になることが前提かもしれません。
つまり、どこかのお寺に所属して、檀信徒や参拝客に対して何らかの関わりをすることになります。
発達障害の状態がどのようなものかはわかりませんが、日本の「出家」は、「社会生活」から切り離されるわけではないので、社会生活に適応できなければしんどいかもしれません。

息子さん個人の悩み苦しみをなくすためなら、出家しなくても、在家のままで仏教を学ぶ方法もあります。
仏教は、悩み苦しみの原因を消したり制御したりするテクニックです。
是非、親子で仏教を学んでいただきたいです。
たとえば、日本テーラワーダ仏教協会のホームページなどには、誰でも参加できる瞑想会や勉強会などの情報もあります。
各宗派や、地元寺院でも、そのようなイベントをしているところもあるかもしれません。
まずは、仏教の基礎知識を楽しみながら学んでみましょう。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

皆様ありがとうございます。わずかな時間のうちに三件もの回答をいただき、感謝いたします。
限られた字数と、そもそも自分の中でも具体的な質問のかたちになっていない、ということもありまして、少々ピント外れのご回答かな?というものもありましたが、皆様の真摯に向き合っていただく気持ちは受け取りましたことを、ここでお伝えさせていただきます。
もっとも、困難にかんじているのが、”残念ながら本人にその気がない限り、難しいです”の部分ですね。発達障害=自閉症の一形態で、本人が周囲に関心を向けない、という、問題がありまして。
苦しんでいる心の救いを求めて周囲になんらかの発信、また、書物などに救いを求める、段階まで、まず、進めたい思いが”出家”という表現にはなりました。私自身、

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ