あと何年生きればいいのか
ふと、あと何年生きれば人生終わらせることができるのかと、塞ぎがちになってしまいました。
役者を志していた際、無理がたたり鬱病になりました。
鬱病の間は両親の貯金で生活してしまった為、両親の貯金はかなり少ないと思います。
父は来年定年、このままだと今の生活レベルは無理だと聞いています。
私が働いて少しでも家にお金を入れれば、少しはマシだと思います。
役者を再び志すことで前に進めると思い、もう一度挑戦しようと思いました。
しかし今は中々アルバイトが決まりません。
毎日将来への不安の中焦っていた際、一体自分は何の為に生まれたのだろう?と疑問に思ってしまいました。
両親の介護の為でしょうか。人は自分の老後の為に子供を産むのでしょうか。
どうして私達はただ生きる為だけのために心をすり減らしながら働かなければいけないのでしょうか。
なんだか張り詰めてた糸が切れてしまったような感覚です。
あと何年生きなければいけないのかという苦しみの中、日々生きることに虚しさを感じます。
生きることは修行ですか?では何の為の修行ですか?
もし生きることが修行だというのなら、生まれた時から自分の運命や課題、生まれた意味を知らないのは何故でしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ルールを立てない 自己の意識とは違う所で息する命を感じる
これに気づいてここを開いている間も知らず知らずに吸って吐いている息はあなたの意志ですっているのでしょうか。ちがいますよね。
自然になされていることです。
あなたの意志ではなく生命の意志とでも言いましょうか。
「わたし・わたくし」という意識とは別に天然に自然になされているのです。
あなたの「わたし・わたくし意識」は死にたいと言っても、息は今もなされている。
それは演じようとしてもできることではない。
演じることは自我う人格をやろうとする。うまくできなければいけない。評価もされなければいけない。それらのプレッシャーや本来の心から離れた心の活動によって苦しんだものと思われます。
生きることは厳しい修行という意味合いの修行ではありません。
仏道の修行とは本来、最高最上の心を生きることなのです。みんな修行してすごい境地になるとか思ってますがそうではない。
自分の心の中のおしゃべりぶったところを飛び越えて、人間本来の心の静けさを全うすることです。普段の周波数が1Hzから1000Hzまで行ったり来たりしているなら777・7Hzという悟りの周波数にチューニングしてそこをキープして悩みなく生きることです。あなたは役者であったのであればそこを演じ切るつもりでホンモノになるべきです。
演技の真骨頂はもはや演技ではなく、無私無作無我のその人のなりきり、そのものになることです。仏の真似をするよりか自身内なる仏を見つけ、その仏を生き切ればよいのです。
あなたのような人の為にこそ仏道はあるのです。
世界にはあなたが思ったり、設定する以前から働いている素晴らしい働きがあります。
人間はどうしても自分が思ったことを優先しがちです。
そういう思いの盛んな働きからこそ自由にならなければいけません。
あなたが望めばあなたを苦しめるその思いからも自由になれるのです。
自らが自らの心をして自らの思いの暴動の戦火から離れた安全地帯に導くこと。
それが仏道なのです。それが坐禅なのです。
質問者からのお礼
ありがとうございます。