自分の性格の変化について
ここ数年、前まで前向きな性格だと自認していたのにどんどんマイナスな思考が強くなってきて自己嫌悪に陥ることが多くなり困っています。
将来美術系の仕事に就きたいと思い現在学校で専門的なことを学びつつ、コンペや奨学金に応募しているのですがことごとく選ばれず、その通知が来るたびに周りの方たちの経歴と自分のダメさを比較してしまって悲しくなり自分には才能がないのか、自分は無価値な何もできない人間なのではとまで思ってしまいます。
そのことについて教授や友人に相談すると「そんなことない。あなたには可能性や才能がたくさんあるのだからそんなことでくじけてはいけない」と言った言葉を返してもらえ、その言葉自体は嬉しいのですが結果として出ていないので結局鬱々とした思いが溜まるばかりで辛いです。
そしてそういった思いを抱える自分自身が汚らわしいとさえ感じてしまいます。
どうしたらこの気持ちと向き合うことができるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
アーティストなら作品への昇華
アートというクリエイティブな道で生計を立てていくことを志しておられるのですね。
さて、まずはあなたの相談を読ませていただいて下記のツイートを思い出したので何かの参考になればと貼ってみます。ご一読ください。
https://twitter.com/_NaokiSaito/status/1018414631466004480
私はアートの道に明るくはないのですが、素人目にもその「評価」ということがいかに難しいのかは分かる気がします。世間的な評価を得ている人とそうでない人の差は一体何なのか…私にはよく分かりかねますが、まあこう言ってしまえば雑に聞こえるかもしれませんが「縁」なのでしょうね。
ここ数年はマイナスな思考から自己嫌悪に陥り、自分自身が汚らわしいとさえお感じになっているようですが、その気持ちとの向き合い方は芸術家にとってはやはり「作品への昇華」なのではないでしょうか?
それが世間的な評価につながるものかどうかはわかりません。芸術家の中には亡くなってから評価を得る方だっているでしょうしね。
しかしそうしたアーティスト達はとにかくとことん自己に向き合い、作品に昇華していったのではないでしょうか。
強い自己嫌悪も何もかもあらゆる感情はどんな人でも持ち得ます。それが作品に反映され作品を通して感じられるとしたら、そこには共感や救いや神秘性など、世間的な要素を超えたまさにアートの領域のパワーとして活かされていくのだと思います。
自分が好きだから創作をするのでしょうが、それで生計を立てるとなると「評価」が関わってきます。その評価に応えていこうとするのか、振り切って我が道を突き進むのかという分岐点は多くの芸術家にあることでしょう。
今のあなたが既にそこに立っているのかはわかりません。でも今あなたがお抱えの感情はとっても大事なものだと思います。
自分の無価値さを感じて苦しんでいる人々は沢山います。その方々があなたの作品をみて救いを感じるとしたらこんなに素敵な事はありません。
どこを向いて作品をつくるのかということは常に問われることでしょうが、今はその自己嫌悪にとことん向き合って創作することこそが、もしかしたら「他者の救い」やさらには「世間的な評価」にまでつながる「縁」となるのかもしれません。
千里の道も一歩から。あなたの縁を紡いでください。
質問者からのお礼
吉武文法さま、
早速の回答ありがとうございます。
上記のツイートとても参考になりました。少し私は高望みをしているのかもしれません…(そういえば周りからもよく言われていました笑)。このモヤモヤを作品に昇華することで他の人を助けることができるのならそれは私にとって大きな喜びです。自分のアートに対するルーツを思い出すこともできましたので少し勇気が湧いてきました。まだこの気持ちとは長い、もしくは永い戦いになりそうですが頑張ろうと思えてきます。
ありがとうございました。