PURIFICATION
15年程前に遡ります。私は、ある医療ミスを発見しましたが、圧力に負け、揉み消されるがままに、私も口を閉ざしてしまいました。ご遺族に真実を伝えたい、そう思い、上層部がゴチャゴチャしている間に、集められる限り全ての被害者の医療情報をかき集め、内部告発を覚悟に、準備を着々と進めていきましたが、外部の、信頼できる医療関係者に、事実を公表すべきかどうか相談したところ、「あなたがこの世界に二度と戻れなくなる」→「事実を伏せるべき」との結論を、結果的に飲み込む形になりました。もし、その後ご遺族の方が、「何かおかしい」と真実を求めてきたならば、私は事実を公表しよう…。そう思っていましたが、案の定、告発されるようなことはなく、ごく限られた職員のみが、その医療ミス=死亡事故を「知っている」「黙認している」状態で「なかったこと」になってしまいました。私は、口を閉ざしたと共に、心も閉ざしてしまいました。その事件が、今の私の病気の始まりになります。「浄化されたい」その思いから、毎日、下剤を110~160錠…。当時は、cleanse the intestines → cleanse my soul(腸内を浄化する→私の心・精神を浄化する)しか考えられないような日々。摂食障害、うつ、脅迫性障害など、次々と病気が私を襲いました。今は、完全に下剤も絶ち、精神面も随分落ち着いてきましたが、悶々とした気持ちは消えることはありません。亡くなられた方やそのご遺族に対して、無言を貫いたことを謝りたい…しかし、今更…というのもあります。生と死の狭間に立ち続け、生と死の重さを感じ続けながら、生きていくしかありません。学生の頃から、「死」と直接向き合うような様々な活動を、1人で積極的に行ってきましたが、社会人になり、たった1か月程で、私は地に落ちました。落下してしまいました。今でも学生の頃の「信念」は変わらないのに、死を見逃す…まさに衝突、逆行しています。真の『浄化』とは?今の私に何が出来るでしょうか?ご意見賜りたく存じます。
・仕事は資格より素質 ・鬱になろうが5才児ぐらい好奇心旺盛 ・順風満帆な人生より七転び八起きぐらいの人生がちょうどいい
職場で久しぶりに再会した人に「やっぱり~!」と言われることが苦痛
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ミスを憎む世間もおかしい
医療ミスとかを憎む社会がおかしいと思いむます。
医療がない社会より、医療ミスしながらでも医療が受けられる社会の方がよいはず。
医療がある社会には、医療ミスがある。
仕方ないのです。
ミスは誰にでもあるのに、ミスした人を犯罪者のように憎む世間は、おかしいと思います。
異常に医療ミスを憎むのは、怒りの煩悩、悪です。
残念ながら、ミスを異常に憎む世間の前では、医療者は危険にさらされすぎます。
私は、世間から異常な怒りがなくならない限り、医療ミスを隠したくなる医療者もなくならないと思います。
ミスは誰にでもある。
治療しなければミスもない。
治療したからこそミスも発生した。
そのように、ミスを受け入れられる世間になってもらいたい。
それまでは、ミスを隠したくなる医療者にも「仕方ない」と思います。
あなたは、怒りの煩悩にとらわれないようにしましょう。
ミスしながらでも治療する医療者の存在は、ありがたいものです。
大悲無倦常照我(←ググってみてください)
このご質問はトラス様がお抱えの苦しみの本質なのだなと読ませていただいておりました。
よく書いてくださいました。本当に苦しかったこととお察しします。いや、今もまだ引きずっておられるのですよね。
さて、私事ですが先日人間ドック(消化器)を受診し腸カメラで下剤も経験してきました。下剤は…しんどかったです。
で、なんとなくですが「腸内を浄化する→私の心・精神を浄化する」という感覚は想像できる様な気が致します。いや、私の想像などはるかに及ばないくらい苦しかったのでしょうからそんな私の話は置いといて、
「浄化」ということはご自身が「汚れた」というお気持ちになったのだと思います。「事実を伏せる」という悲しく厳しい結論によって。
そのトラス様が今、真に「浄化」されるにはどうしたらよいか。それは「汚れ」が「浄められる」のではなく、そもそも「汚れてなどない」だから「浄化する必要もない」という様に、「汚れ」と「浄化」の二項対立の構図をぶん投げてしまうことです。どちらも超える事です。
それはけして、起きた事を正当化することでも、仕方なかったと開き直ることでもありません。
「検体になる(2)」で大慈師が説いてくださった『一切皆空』(いっさいかいくう)です。
あなただけのせいでも、上層部だけのせいでも、外部の信頼できる医療関係者だけのせいでも、ご遺族の追及がなかったせいでもありません。
その時の様々な巡り合わせの中でそうなってしまった「ご縁」です。
「ご縁」によるのだということで、自身が自身を責めていたという責任から解放されるのが救いです。そこには「私にはこうできたはず」という「正しさ」からの解放と、思い通りになどできるはずないという人間存在の分限の認識があります。
一方で、それでもその「ご縁」に自身の責任も見出して引き受けていくことは人生に対する主体性を持つという意味での救いでもあります。
けしてモヤモヤをキレイさっぱり消し去ってしまえることが「浄化」ではありません。トラス様の言う所の「自問自問」です。問いながらモヤモヤを引き受けて生きていくのです。生きることはモヤモヤすることです。
我々がいくらモヤモヤしていても、それをモヤごと照らしてくださるのが仏様と仏法です。雲の上にも常に日が差しているのです。
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
南無阿弥陀仏
質問者からのお礼
願誉浄史様、お返事ありがとうございます。医療ミスがあったことは事実で、尊い命が失われたのもまた事実、それでも医療に対する考え方が今より変われば、少しは報われるのかも知れません。何とか命を救おうとした結果がどうであれ、今の医療に対する世間の目は異常に厳しく、一度「謎の死」と捉えられれば、死亡→提訴という流れが止まることがありません。大概の病院が、何かしら訴訟を抱えています。それが、高度医療、救急医療ともなれば、ますますのこと。ただ、隠蔽は良くありません。ミスはミスと認め、事実をしっかりとご遺族にお伝えし、ちゃんと納得のいく説明をする、という義務はあると思います。亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、これからの医療の在り方について、皆で考えていける時代になれば幸いです。ホスピスのように、世の中に「ビハーラ活動」が浸透していくことを願いつつ、これからも頑張って皆様の為に生きていきたいと思います。
吉武文法様、お返事ありがとうございます。また、『PURIFICATION』の回、ご拝読いただき、感謝致します。阿弥陀如来の救いとは、既にその救いの中にいる私たち。このような私だけども、阿弥陀如来は常に見捨てずに、常に慈悲の光明で包んでくださっている…「大悲無倦常照我」は、そういうことかな?と。まだまだ未熟者の為、上手く消化、表現出来ませんが…。吉武様がおっしゃられた通り、「生きることはモヤモヤすることです。 我々がいくらモヤモヤしていても、それをモヤごと照らしてくださるのが仏様と仏法です。」と思えば、救われる気持ちと、また身の引き締まるお気持ちが湧いて参ります。私の迷える心『自問自問の毎日』を、分かり易く、消化吸収し易く、吉武様が噛み砕き、ご説明して下さっているようで、まさに、これぞ『有り難し』であります。いつも対等な目線で、様々なご意見、ご回答いただき、ありがとうございます。北海道と、こちら神戸は、少しばかり離れておりますが、hasunohaで
出逢えたのめ何かのご縁、(仏様のご縁)、いつかお伺いし、語り合う機会が訪れたらなと思います。今回頂いたお言葉を生きる為の力とし、日々精進して参りたいと存じます!どうもありがとうございました!!!
吉武文法様への返事にも、毎回ながら誤字脱字の多いこと多いこと…やはり人間とはミスる生き物です。すみません。病気を発症してから、処方される睡眠薬を飲んでおりますが、あまり効果を実家できぬのに、そのぶん、夜は寝ぼけてるのか!と言う程、うつらうつらすることがございます。誤字脱字打ちミス、どうかお許しを…すみません。
「すみません」とコメントしているだけで、また打ちミスが…眠れなくても、今時間的に、ちょうど薬の作用が出ている頃なので、またミスるかも知れません。ご勘弁下さい。