hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

ペットを死なせてしまいました

回答数回答 2
有り難し有り難し 99

飼っていたハムスターを私の不注意で死なせてしまいました。

お部屋の中でお散歩をするのが大好きな子で、事故が起きないようお部屋のレイアウトを変えるなど注意を払っていたのですが、たまたま私がドアを閉めた際に事故が起き…亡くなってしまいました。

死骸は小さな箱に大好きだったおやつやおもちゃを入れ、実家の墓地に埋葬しました。

私のせいです。
とても可哀想な事をしてしまいました。
後悔と罪悪感で涙が止まりません。

どう罪滅ぼしをすればよいでしょうか?
何をしてあげられますか?
教えてください。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今後の生き方次第で救われる

故意ではなく不注意だったわけです。あなたに悪気があった訳ではないのでしょう。
動物と言えども人間と同じ生命です。
また、ペットは人間関係と違い、無条件に人間以上に愛情を注ぐため、亡くなった時のショックも大きいものです。
あなたの大好きだったハムスターが亡くなってしまってさぞかし悲しいことであろうと思います。
49日の間、7日ごとでいいですから、埋めたところによく食べていたご飯をお供えしてあげてください。
「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」と三遍お唱えしてください。
お経ならば般若心経や舎利礼文、懺悔文などでも結構です。
毎日でなくて結構です。7日ごとで結構です。
人も愛するペットもあなたにとっては同じ大きな存在感。
丁重に懇ろに弔い、供養してあげることで、あなたの心の中で、今後も善処に生ずることでしょう。
今は、心の中では悪処に生じています。(後悔 自責)
だからこそ人と同じように弔ってあげて、心の中で善き処に生ずるべく供養するのです。
死んだ後でどこか遠い世界に行くという事ではなく、あなたの中での関わりが続いていくのです。
だからこそ、そこできちんとお勤めご供養いたしませんと、悪処に導かれるのですよ、心の中で。
私の先輩僧で、昔、大きな罪を犯した人が居ました。きちんと詫びないままに生活をしてきたそうです。
その人は、その後、ずっと心に引っかかりが残って今もお立場こそ立派な所におられますが、先日お会いした時にまだ、心が晴れやかではありませんでした。
いつかハムスターやハム太郎を見た時に、悲しみに覆われるはずです。事務的に、疎かにしていてはいけません。あなたが納得のいく形できちんと供養してあげることで、あなたが今後心安らかなる人生を歩めます。自分に誠実に向き合ってくれと、小さい命ながらに語りかけてきているのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

似たような思いがあります

飼い猫を認識不足のために尿路結石症に。生涯、医師からの餌しか与えることができなくなりました。
スーパーで美味しそうに食べていた餌を見る度、バカだった、自分のせいだと自責の念にかられます。
石を取り出すときの鳴き声、痛かったろうに。苦しかったろうに。
とりかえしのつかない事をしてしまったと、せめて自分を責め、辛く苦しい思いをすることで罪を償わせてもらおう。
報いとしてこの猫と同じ苦しみ痛みを自ら受け、決して逃げない。猫の痛みを忘れない。
仏の法華経の教え、罪障消滅です。
相手に与えた苦しみ痛み(罪障)を決して忘れない。その報いをすすんで受け、同じ苦しみを味わう(消滅)。
生涯かけて罪障消滅させてもらうのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ