仏教に様々な宗派がある理由
いつも拝見し、様々な方のご質問やお坊さん方のご回答を読ませていただいては多くを学ばせていただいており、ありがとうございます。
初めて勇気を出して質問させていただきます。。。
少しずつ本を読んだり話を聞かせたいただいていますが、まだまだ初心者です。
本来ならばいずれかの宗派に特化して学ぶべきなのでしょうが、まだそこまで絞れておりません。
少し学んだレベルなのですが、自力の仏教も他力の仏教も頷かされることが多々あります。
どちらの仏教も並立するんやないかなと思うこともあるくらいなのですが、他方、それぞれで相反する考え方もあります。お経さんでも同じです。
元はお釈迦様から始まった同じ根っこなのに何故なんやろう…と不思議でした。
これは、対機説法、応病与薬が具現化した結果だと理解するべきものなのでしょうか?
そうであるとするならば…
浄土真宗では、煩悩はなくならず、自力では決して救われず、悟ることはできないと聞かせていただいています。
他方、禅宗では、煩悩を減らして行き修行を重ね悟りに至ることを目指すものと認識しています。
ということは、人それぞれによって(対機)、自力で救われる人もいれば他力で救われる人もいる、
煩悩のままで救われる人もあれば、煩悩を減らして(なくして)救われる人もいるということでしょうか。
どの様な人に、どの様な説法=教えが適切なのでしょう⁇⁇
屁理屈の様な、ド素人の、アホな質問で大変恐縮ですがご教示頂けますと有難いです。
もしかして過去にどなたかが似た様な質問をされて回答がある様でしたら申し訳ありません。
宜しくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まぁ、おいおいに…
言い出すと切りがないので先に結論から。前提ほど後ろに配置しますので読める範囲でよんでください。リンクは私の過去回答をご覧ください。
「どの様な人に、どの様な説法=教えが適切」か?について。このように考え方を公式化するのを仏教は一番嫌います。我を強くする原因ですので。
じゃあどうしましょう?いろいろ参加して試してみて「この人に教わりたい」という人に巡り会えた時、その人に師事なさって下さい。宗派はその結果として付いて来ます。学校教育でも一人一人の教師の意識と力量によって、勉強が好きになる子から自死するまで追い詰められる子まで別れますね。それと同じです。
宗派の違いは対機説法の延長です。縁起の教えをどの宗派がどう説いたか?という視点でアプローチすると全宗派同じだと分かります。
https://hasunoha.jp/questions/26499
以下、前提。
・悟れない論は解釈改憲で全く別の悟りを語っています。↓の釋精徹師(浄土真宗)と丹下師(禅宗)の悟りの内容を比較した上で、総括として私の回答をご覧ください。
https://hasunoha.jp/questions/12194
・煩悩云々も他力側の見なしと、戦後の混乱&無宗教化によって凄まじく改変されてしまっています。
https://hasunoha.jp/questions/27531
ぶっちゃけ世間の煩悩⇆修行のイメージは仏教ではなく十三代目石川五右衛門や早乙女乱馬あたりの修業です。そのような修業観が、地下鉄で事件を起こした例のカルトみたいなのが『立派に修業している』という認識へと結果的に繋がってしまいました。もう時代遅れの認識にして仏教を正しく広めねばなりませんね。
・大前提の自力と他力ですが、これは他力を主張する人達が「あの人たちは自力だ」と見なしてしまったから生まれた概念です。
https://hasunoha.jp/questions/12115
私は禅宗ですが、禅宗のお坊さんの間で「修行によって自分を高める」みたいな言い方をすると脊髄反射で三流認定されます。そのくらい自力は目指していません。結局、他力を主張するグループが日本国内では最大派閥ですので、教科書を作るときにもそちら側に引っ張られてしまうのですね。
そこらの並の本でもその程度の認識です。本を選ぶときは著者にご注意を。
「菩提道次第」
bethmido様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
まあ、「対機説法」、「応病与薬」、「善巧方便」とステレオタイプ的にお答えすることもできますが、では、それぞれの機根、心のありようを、どのように判断して、いったい、どの教えが合うのか、それを決めるのは、なかなか容易なことではありません・・
そこで、いかなる機根、心のありようであっても、悟りヘの階梯を段階的に調えるための「道しるべ」として調えられましたのが、「菩提道次第」となります。
「菩提道次第」は、インドで二大仏教僧院の一つであるヴィクラマシーラ僧院の僧院長であったアティーシャ大師の「菩提道灯論」を源流として、やがて、チベットのツォンカパ大師が大成するところとなっています。
特に、ツォンカパ大師の「菩提道次第論」・「菩提道次第大論」をしっかりと学ぶことができれば、自らがどのように悟りへの道のりを歩んでいくべきであるのかが、より良くに理解できるところになるのではないだろうかと存じます。
是非、「菩提道次第」の学びについても、取り組んで頂けましたらと存じます。
補足・・・
自力、他力については、いずれも実体としてあるものではなく、あまり、自他を分別して囚われてしまってはいけないものとなります。まあ、しいて申せば、悟りへと向けては、「自灯明 法灯明」が釈尊の教説となります。私たちが、最終的に目指すのは「往生」ではなくて、あくまでも「悟り」であるため、「往生」へと向けた教えと、「悟り」へと向けた教えを、あまり混同させてもいけないものであると考えています。
川口英俊 合掌
仏教(宗教)はこの「私」を抜きにしては成立しない価値観の世界
こんにちは。亀山純史と申します。
仏教に限らず、キリスト教やイスラム教においても、いくつかの宗派があります。それは宗教とは個人における価値観の世界だからです。つまり、この「私」を抜きにしては成立し得ないのが、宗教の世界なのです。
宗教とは個人の人生の羅針盤(コンパス)になるものです。つまり、宗教とは「如何に私は生きていくべきか」という人生に対する価値観の世界です。それに対して、科学は価値観を含んでいませんので、科学が導き出す答えは常に固定されています。もしも、今までそうだと思われていたことが、実はそうではなかった時、古い知識が新しい知識に訂正されることが許される世界が科学の世界です。しかし、宗教はその人の人生に対する絶対的な価値観なのです。ですから、それは古い知識が新しい知識に訂正されるような世界ではないのです。そのかわりに、価値観は人によって異なります。たとえるならば、読書感想文を考えてみてはどうでしょうか。同じ本を読んでも、読書感想文は人それぞれです。決して、一冊の本にひとつの読書感想文しかない、ということはないのです。
以上が私からの回答です。参考になさってみてください。
質問者からのお礼
いつも拝見している先生方から、それぞれ異なる視点からの貴重なお返事をいただき、大変感謝しております。
大慈先生、以前の問いや解答も拝読させていただきました。たしかに浄土教に寄った本や話を聞くことが多いための私の考え方なのだなと納得しました。禅宗の考え方も学びたいと思っています、機会がございましたらお勧めいただける本などがございましたらぜひご教示ください…先ずは修証義の解説本を読んでいます。また直接話を聞く機会を得たいと思うのですが…
亀山純史先生、法は一つだけど価値観によって解釈?が各々個人によって違うものということなのでしょうか?
ブログも拝見しました、すごくアカデミック?でとても読み甲斐がありそうで興味があります。そちらもぜひ拝読させていただき学びを深めたいと思います。
川口英俊先生、自他をあまり分別して囚われてはいけない…まさに囚われていました。
そして、往生と悟りはイコールだと思っておりました。まったくど素人丸出しです…
自灯明法灯明…とくに前段が難しそうです。
「菩提道次第」興味があります、学ばせていただこうと思います。言葉がわかるかな…
ご多忙のなか、貴重なお答え、まことにありがとうございました!
また質問させていただきます際にも引き続きどうぞ宜しくお願い申し上げます(._.)