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悟ったお坊さんへ

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悟ったら毎日どんな感じですか?

悟ったら毎日たのしいですか?

たのしいだと
つまらないが対極について回るから

たのしいというより
静かな感じですか?


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟っても悟りやすくなるだけ

一言で悟りって言っても、ぶっちゃけ全員共通の悟りって無いんです。
時代が下るにつれてどんどんハードルが上がっていきますが、原始仏教のころは縁起の教え(自分が何者か)が実感できていれば大いなる悟りでした。
だから原始経典では老若男女たくさんの人がポンポコ悟っていますし、お釈迦さまは「ブッダたちの中で最も優れたお方」という呼ばれ方もしており、お弟子さんに他のブッダがいっぱいいました。その意味で悟っている人は今の時代も掃いて捨てるほどいるでしょう。
しかしハードルが上がり切って、完全な人格者とか超越者、救済者になったハードルでみれば、1人もいないでしょう。近付いても近付いても永遠にハードルは遠ざかり続けますから。

さて、ハードルを上げる派は「 悟ったら永遠に苦しまなくなる」と言いますが、元々はそうじゃ無いんです。悟っても辛い時は辛いのです。それこそ悟った後のお釈迦さまでも、何かあるとしょっちゅうマーラ(悪魔)に出くわしています。マーラに出くわして、お釈迦さまが智慧の詩を読むとマーラが負けて退散するのが定番です。マーラは煩悩の象徴です。つまり原始経典を書いた頃のお坊さんたちは悟ったお釈迦さまでも『煩悩と葛藤していた』と言い伝えていたのです。

あるいはお釈迦さまが亡くなる時、9段階の心の状態(九次第定)を順々に上がっていき、1度一番下まで下り、また4段目まで上がった時に息を引き取ったというこの業界では有名な話もあります。お釈迦さまは亡くなった時に強烈な食あたりに苦しんだのですが、その中で心が揺らいでいたわけです。お釈迦さまでもそうなのです。

悟りはいちど悟れば1分1秒全く同じ心境でいるのではありません。悟った後でも悟り心の時は悟り心、そうじゃ無い時はそうじゃ無い。それだけです。考えてみれば当たり前でしょう?

それがやがてキリスト教やイスラム教の全知全能の神と比べられるようになります。悟りも仏も全知全能レベルでなければ馬鹿にされるようになります。そして全知全能レベルだから常人は完全な悟りに至れないという風潮に自然と流れるわけですね。

ただ、辛い中でもどこを目指せば良いか分かる…その見通しが立つだけで、たとえ泣きじゃくりながらでも、もう一度立ち上がり、前を向いて歩き出すことができるんです。元々のハードルにせよ上がり切ったハードルにせよ、そこに悟りの力強さがあるのですよ。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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法蔵菩薩はいまだに成仏していません

浄土真宗のご本尊は、阿弥陀如来といいます。

浄土教では、法蔵菩薩の物語があります。

ある国王が、はるか昔、世自在王仏という仏様の説法を聞いて感動し、自分も出家し、このうえない悟りを開こうとします。
国王は出家し、法蔵と名乗ります。
すべての人々を、どんなに能力が劣っていようが、どんなに罪悪深重だろうが、一人残らず救おうと決意します。
そのためには、自分が成仏したあとに作る国(仏国土、浄土)をどのような世界にするべきか、五劫というとてつもない時間、思惟します。
そして、兆載永劫(無限に近い長い時間)修行して、成仏し、阿弥陀如来になった。
それから十劫という長い時がたった。

これが法蔵菩薩の物語です。

しかし、これは本当は矛盾しています。
法蔵菩薩のたてた48の誓願は、すべて「もし、たったひとりでも救われない人がいたならば、私は決して成仏しません」
となっています。

現実のこの社会は、私自身、コアラさん自身、まだ苦しんでいます。
苦しんでいる人が一人でもいる限り成仏しないで、菩薩のまま修行しつつける存在が法蔵です。

真宗大谷派では、「すでに成仏した阿弥陀如来の救いの働き(果成の摂化)」と「まだ成仏していない法蔵の誓願」が同時に働いているととらえます。

ある先生の言葉ですが

「君は、悲しまない、常に楽しい気分でいられるようになりたいのか?」と、言ったそうです。

あなたは、自分の隣に、「苦しい、辛い、なんとか助けて欲しい」と言っている人がいても、悲しくない、平気でいられる人間になりたいのですか?
という問題提起です。

そう、原理的に矛盾しているのです。

もし、「私はこの上ない悟りを開きました」という人のとなりに、コアラさんがいたら、そのお坊さんは、平気なのでしょうか?

このうえない悟りを開いたなら、なにも苦しいことはないはずですよね?

でも、隣にいる人が苦しい、辛い、助けてと言っているのに、それでも平気な人は、本当に「この上ない悟りを開いた人」といっていいのでしょうか?

私にはそうは思えません。

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おきもち

浄土真宗、真宗大谷派です。
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悟りとはきっとこうだ、という推測こそが悟りを妨げている。

夏から秋に変わって半袖で自転車やバイク、車に乗って風を感じる🍁と自然に微笑みが浮かぶでしょう。
それと同じです。🚴.。oO(*´▽`*)🌸🌷
その前に。
こういう質問に答えると「(-""-)コイツ、悟ったとか自分で言ってるからニセモンだ」とか悟りを誤解している僧にあらぬ文句をいわれちゃうことがありました。モンクだけにね。
悟りに関する誤解無きよう。後半部もご覧ください。
こんにちは。
ここでお伝えする悟りとは「禅」の悟り。悟りとは(´-`).。oOこういうことだべと解釈される以前の人間の誰でもの本源の様子です。
悟りに推測・分析は不要です。
推測・分析は頭の世界。その前の本源の様子は「オラ悟りはこうだと思う」とか宗派・流派無しの万人共通の事実。自己の真相。
マジで推測する0・5秒前…を感受して頂きたい。
五感の感受はもの👀見れば🌳そのものになる。楽しい時は比較無しに「絶対的」に楽しい。
本当に楽しい時は、相対なんてありませんよ。
オイシイものを食べれば、その時に食べていない他の別モノの味が舌上に感知されるなんてことは絶対ないからです。ないでしょ?あるとすればそれは頭の中の比較の世界。過去の記憶や未来への推測。実際に「リアルタイムの事実」に触れていない頭の中✨状態です。
只管に食べてればオイシーなんて意識するまでもなく絶対的にビビビ。「ン!( ..)🍚うめ!」
楽しい時は子らが無邪気に遊ぶようにチョー楽しい。
反対に物事に接する姿勢がリアルタイムの体験状態でなくなれば思考状態になります。
評価や優劣など比較・分析の世界は振り返る「観察ビジョン」。
あくまでもそれはアタマの世界に移行されたスクリーンビジョン。
その0.1秒前は感受、知覚のみ。「ん!(..)🍣ウメ!」
判断、分析の起こる間のドップリ。
言葉で言うと3ミリずれるので絵文字にしてみました。
ウッヒョー(´◉◞д◟◉)🍖
NHKの試してガッテンで瞑想のススメをやっていました。瞑想や無私無我の行をすると悟らんでも六感のさびついていたセンサーが研ぎ澄まされて、せんべい一つでもミルフィーユ食べてるみたく❝層❞を感じられる程に美味しくなるのです。(せんべえですが)
悟りに関する知識こそが悟りを邪魔をするものです。
最近9月の私のフェイスブック記事を読んで頂けるとより誤解無く真意を感じられるはずです。

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おきもち

まだ覚れてません

すいません、まだ私は覚れてません。
昔、浄土宗の宗祖法然上人が、現世で覚れるのはお坊さんでも千人に僅か1、2人と言われました。(2、3人だったかな?)
果たして現在ではどのくらいのお坊さんが覚りに至っているでしょうか。
なので、その質問に答えられる人はなかなか居ないかもしれません。
でも、おそらくですが、覚りに至ると苦しみや悩みや迷いが無くなり、楽しく生きられるのかな?と思います。
私は極楽浄土で覚りに至る予定なので、その時のお楽しみです。
もし私の命が尽きた後、あなたの前に現れなかったら、極楽浄土で覚りに至ったらあなたに会いに行く暇がないくらい楽しすぎるんだな、と思ってくださいね。

追記
ただ、大切なことは、覚りに至ることよりも、覚りを目指して歩むこと、なのかもしれませんね。
希望を持って、前を向いて歩みましょう。
その先にはきっと。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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煩悩を克服することが悟り

煩悩は十種類あるそうです。
修行によって、十種類の煩悩が段階的に消えていくそうで、その段階に四段階のステップがあるそうです。
つまり、悟りには四段階あるのです。
四段階目の最高の悟り「阿羅漢果」に達すると、全ての煩悩が消えているそうです。

「悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果」
(藤本晃著)
という本を読んでみてください。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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悟りへと向けて・・

コアラ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

悟りへのご興味、誠に有り難く尊いことでございます。

どんな境地が目的・ゴールとなるのか、それを事前におぼろげながらにでも、しっかりと理解した上で、仏教の修習を進めていかないと、一体どこへ向かっているのかも分からずに、無駄に五里霧中を彷徨うようなものとなってしまいかねません・・

悟っておられる如来様の境地につきましては、難しい言葉で申しますと、仏教を修習なさられて、智慧と福徳を円満に成就されて、輪廻して迷い苦しむ原因となってしまっている煩悩障と所知障を断滅されておられて、悟り得られたる如量知・如実知(一切知・勝義知)によって、例えば、モノ・コトの顕現については、「ご覧にならない仕方で、ご覧になる」と言うような表現となります。

もちろん、当然に「なんのこっちゃ・・」となるでしょうが・・

もし、大いに興味がございましたら、そうですね・・

全訳・ツォンカパ大師「中論註『正理の海』」の「第24章・聖諦の考察」の内容を理解できるところまで、是非、まず仏教について優しく分かりやすく説かれている教えから、一つずつ段階的に学びを進めていって頂けましたらと存じます。

拙生はもちろん全くまだ悟ってはおりません。共に悟りへと向けて頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。
わたしは悟りに対する
偏見がありました。
正したいと思います

そんな!

どんな人も
煩悩と葛藤されておられるのですね
ショックです

目覚めに至るよりも、
目指していくコトに希望もちたいです。

お釈迦さまも
煩悩を抹消できなかったんですね。

悟りについて、
お坊さんがたが沢山ご意見を書いていただいて
大変恐縮いたします。

お恥ずかしいですが、
わかりそうで、
ますます。
よくわからなくなりそうです。

悟りは逃げ水のようなものですよね。

アホですみません。
おすすめしていただいた本を読みます。
本屋にはなかったです…。
図書館に行ってきます。

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