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私が死んだら、自力で成仏できますか?

私には子供がおりません。
供養してくれる人がいません(たぶん)

私は、火葬と納骨までしてもらえれば、それで良いと
考えております。

自然の摂理に沿って、最後は潔く死に、
そして、誰からも供養してもらわなくとも、
自力で成仏したいのです。

死後、お線香をあげてくれる人がいなくても、
一周忌や三回忌の法要がなくても、
自分の意志で成仏できますか?

心構え・生きる智慧
有り難し 102
回答 6

質問投稿日: 2016年9月25日 21:58

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

簡単に、成仏できますよ。

とても簡単です。これほど、簡単に極楽浄土に行かれる道はありません。
阿弥陀さまの救いを信じたらいいんです。
他は何もいりません。
感謝の気持ちは、「南無阿弥陀仏」ナムアミダブツと唱えたらいいいんです。
でも、阿弥陀さまはお礼なんか期待していませんから、
あなたが、たった今、私は極楽浄土に行かれると信じたら、
それだけで十分なんですよ。

追伸

信仰ということについて、私の思いを補足させていただきます。

私にとっての信仰とは、私の仏さまへの想いです。
私にとっての仏法とは、誰かが信心を深めることではなく、
この愚かで救いようのないこの私が、教えに会わせていただく教えことです。
私の信仰生活が高まっていくことは、私の自信が高まることです。
精緻にいえば、仏力をもって高めて戴いたとなるのでしょうが。
どのような環境にあっても、どのような境遇からであっても、
そういうものを素直に軽く受け取って行く。
悲壮感は孤独感は私にとっても、あなたにとっても重い荷物、
それも要らない荷物ですよ。
そう考えると、逆境は自ずから順境になってしまう。

天親(てんじん)菩薩さまが、「お釈迦さま、私は心を一つにして、
極楽浄土に往生できますように
祈っています。」と『浄土論』という著作の中でおっしゃっています。

これを曇鸞(どんらん)大師さまが解釈して、
「心心相続して他想間雑することなし」とも言われます。

高僧というど偉いお坊さんでさえ、一心に極楽浄土に生まれることを祈り、
また、心の隙間に雑念が入らないようにとおしゃっています。
ご自身のいまの想いを大切になれながら、
想い、信仰をご自身の中で深めていかれたら如何でしょうか。

僭越ながら偉そうなことを書かせていただきました。

2年6ヶ月前
回答僧

因速寺

釋精徹

浄土真宗は追善供養をしません

死後に、法要をしたり、お線香をあげてくれる人がいないと成仏できないのではないか?と、心配なのですね。
「追善供養」という言葉があります。

浄土真宗では追善供養は不要という教えですから、しません。

浄土真宗の教えでは、往生即成仏であり、往生の因(原因)は、ただ信心のみです。

浄土真宗の法話等をきき、「これは真実の教えだな」という感動があったら、その人は、浄土真宗の信心をいただいたといってよいと思います。
そのとき、その人が、必ず往生、成仏することが定まります。
死んでから、ではなく、そのとき、です。
これを現生正定聚と言います。

浄土真宗の教えでは、往生、成仏のために必要なのは、ただ信心だけです。
それも、自分で起こした信心ではなく、阿弥陀如来からいただいた(たまわった)信心です。

死後、法要をやってもらわなくても、線香をあげてくれる人がいなくても、信心定まった時点で、往生、成仏は確定しています。
未来仏である弥勒菩薩と同じ地位に、今生きていながらつくのです。

2年6ヶ月前

他力へのご招待

はじめまして。亀山純史と申します。
自分が死んだら、誰が私の供養をしてくれるのか、とご心配なさっているのですね。そこで見出した答えが、「自分の力でどうにかしよう。」ということであり、それについてのアドバイスがほしい、後ろから「大丈夫、自分の力だけで仏様に成れますよ。」と言ってほしいんですね。でも、次のようなことってありませんか。それは「自分の力でやった。」と思っていたことでも、後から振り返ってみると、そこに多くの他の人の助けがあってできたことを感じるという経験です。「自分の力でやった。」と思っていても、本当は、多くの他の人の手助けがあって出来たことがほとんどではないでしょうか。よくスポーツ選手が、「ファンのおかげで勝つことができました。」というコメントを言いますが、まさに、自分一人だけの力でできたことではないことを表していますよね。

さて、本題に入りましょう。仏様に成る(悟りを開く)ことにおいても、自分の力でやれると思っていたら、実は仏様のはたらき(他力)で、既に仏様に成ることが約束されていた、という教えが仏教にはあるのです。南無阿弥陀仏という言葉を聞いたことありますよね。南無阿弥陀仏とは私たちが称える念仏ですが、それは単なる言葉ではなく、終わりのない“はたらき”です。決して、途中で試合放棄をするような“はたらき”ではありません。では、そのはたらきとは何かと言えば、その“はたらき”は、言葉や分別を超える“はたらき”です。言葉や分別を超えるとは、すべてを平等にすることであり、南無阿弥陀仏という“はたらき”がなければ、この世にものの生滅(因縁生起)は起こらないのです。つまり、この世は南無阿弥陀仏であふれている世界なのです。それに気づけば、阿弥陀如来のはたらき(他力)でもって、仏様に成ることが出来るのです。一度、他力の教えに耳を傾けてみてはどうでしょうか。

2年6ヶ月前
回答僧

大慈

自分が自分を手放せば未練も残らない

このような内容に字数をさきたくないのですが、自力という概念は出版社の編集部で書かれる入門書で好んで使われる用語なので広まっています。しかし本来、仏教に自力というものは有りません。専門的な論文データベース(INBUDS)で「自力」を検索すると26件ヒットしますが、そのうち21件が浄土教側からの論文です。他は日蓮宗系で2件、新宗教を扱った論文が1件、そして禅系の学者さん・通仏教的な学者さんが浄土教を研究したものが1件づつです。
完全に、他力を主張する人達が「あの人たちは自力だ」と見なしてしまったから生まれた概念です。

なぜなら、いわゆる自力と見なされた側に言わせれば、『自分や他人という区切りを取り払う』のが仏教だから。ぶっちゃけ自力も他力も深いところで理解すれば本来は同じことを言っています。

道元禅師の言葉で言えば「仏道をならふというふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」です。

あるいはお釈迦さまの言葉なら「過ぎたるにも、来たらんにも、はた 現在(いま)にも、いささかの我有(わがもの)というものなし、所有(もつこと)なく、取(まつわり)なし、われかかる人を、婆羅門とよばん」(友松円諦『法句経』421偈)

弔うということは、遺された人が親しい故人のために何かしてあげたいから、あるいはやらずにいられないからやるのです。自分が死んだ後のことまで自分の意志を通すのはエゴですよ。そういうのが未練に繋がっていくのです。
線香を上げてくれる人がいないならいないで構わない、いたならいたで構わない…そうやってご縁にお任せすれば良いのです。私の師匠も「私が死んだら全て任せるから、組寺さんや護持会の役員さんとよく相談して良いようにしなさい。どうしてくれても私は文句言わんからな。」と言い残しています。潔い最期や成仏とは、そういうことだと私は思いますよ。ご縁の中で生きて死に、ご縁に感謝して頂戴できれば不安に思うことは何もありません。

ついでに…お礼欄にスピリチュアルのワードが複数見えますが、スピリチュアルは仏教とは全くの別物です。忘れて下さい。お願いします。

2年6ヶ月前

自力と他力

自力で成仏するとは、お釈迦様のように現世に生きている間に覚り(悟り)に至るということです。
覚りに至るとは、全て煩悩を取り除き、あなたの言われるように、自然の摂理に従って生きて自然の摂理に従って死ぬ、そしてその事を迷いなく受け止めること、なのかなと思います。(私自身覚りに至ってないのであくまで想像ですが)
あなたはもしかすると既にその域に近いのかもしれませんね。

ただ、もしどうしても不安が消えないなら、南無阿弥陀仏と小声に出して唱えてください。
さすれば、阿弥陀仏のお力で、命尽きた後、極楽浄土に行き、引き続き覚りに至る為の仏道修行を続けられます。これを他力といいます。
その時は共に極楽浄土で精進しましょう。

後の供養は無くても大丈夫です。
覚りに至ればそのような心配も無くなりますし、覚りに至れずとも、極楽浄土に行けば子孫からの供養が無いことは少し寂しいかもしれませんが、たくさんのご先祖様や菩薩様や仏様がおられるでしょうから、その寂しさも無くなることでしょう。

2年6ヶ月前

菜の花様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

亡くなってからのことではなく、是非、できるだけ今のうちから、確かなるご仏縁、堅固なる菩提心(悟りへと向かうための決意)をお持ち頂けますように、仏教により接していって頂けましたらと存じます。きっと、よりよく生きていくための智慧にもなることでしょう。

川口英俊 合掌

2年6ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

佐藤精徹さま・三浦康昭さま・亀山純史さま・聖章さま

菜の花です。昨日、投稿したばかりなのに、本日パソコンを開いたら、
なんと4人の僧侶様から、お返事を頂いて大変有り難く思います。

『成仏』できるとのこと。安心致しました。
そして、自力でといっても、何らかの形で自分以外の力に助けられていることも理解しました。

私は、お義理で御線香をあげてほしいとは思わない。
この世に、いつまでも未練を残して成仏しない浮遊霊には絶対になりたくない。
この世には「自分に足りない何か」を学ぶために生まれて来たのだと思っています。
そして「学び」を終えたら、潔く御先祖様の元に帰り、
まずは、御先祖様が生きていた頃の、私の至らなさ、未熟さを詫び、
今は、こうやって成仏することが出来ました と報告したいです。
これからも『浄心』し続けていこうと思います。

沢山のアドバイス、有難うございました。
『南無阿弥陀仏』

川口英俊さま

菜の花です。アドバイス有難うございました。

最近は『仏教』に興味を持つようになりました。
ただ、どの宗派が自分に一番、合っているのか分かりません。
でも、どの宗派も、最終目的は同じで、入口が異なっているだなのかな? とも
想像しております。

数学でいうと、「解」は一つで、解き方が沢山ある。みたいな。。。

大慈さま
コメント有難うございます。

仰る通りです。
私は、御線香をあげてくれる人がいなくても構わないんです。
供養をしてもらわなくても構わないんです。
生きている人達が私の死のために何もしてくれなくても構わないんです。

死後のことまで自分の意志を通すのはエゴだと書かれていらっしゃいますが、
私は、残された人に何も望んでいません。
自分が供養されなくても、決して恨んだりしません!
私の意志とは、ただ「成仏」したい! コレのみです。

大慈さまの、お言葉の中に、
ご縁の中で生きて死に、ご縁に感謝する、ご縁に任せておけば心配はない。
とありましたが、
ごもっともだと思います。

自分が自分を手放せば未練など残らない。
とありましたが、
本当だと思います。
ただ、今現在の私は、まだ自分を手放す境地に至れないでいます。
他人から見放されても、自分は自分自身を見放さないでいたいからです。

それから「自力」という言葉を使ってしまいましたが、
真意は、「誰からも供養されなくても」という意味です。

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