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納得のいく死

回答数回答 2
有り難し有り難し 31

先日、最愛の母を癌で亡くしました。
癌だと判明してからたった二ヵ月足らずで逝ってしまいました。
本人には事実を告げられないまま…
本人も治ると…必ず治す!というつもりで頑張っていました。

人は誰しも自分の『死期』は分かりません。
自死の方は別かも知れませんが、皆さん『納得のいく死』
が出来るわけも無いし、そもそも死にゆく事に本人も家族も
『納得』や『覚悟』なんてそう簡単には出来ません。
殆どの人が『無念』な思いで逝くのではないでしょうか?

やり残した事、言いそびれた事、気になっている事…
色んな思いを抱え、それらが『後悔』や『恐怖』となって
本当に『辛く』『悲しく』時には『怒り』となって
たった一人で心細く無念に旅立っていくのではないでしょうか?

そんな『無念』な思いで旅立った魂は、本当に
心安らかに『成仏』が出来るのでしょうか?

残された家族が一番心を痛める事…
それは
どんなに辛かっただろう
どんなに無念だっただろう
どんなに怖かっただろう…

話が出来たら、どれだけ辛かったか聞きたい…
今、どう思っているのか聞きたい…
でもそれが出来ないから苦しいのです…。

教えてください。
自分が『死んでしまう』とは思ってもいないのに
治そうと、治ると思って頑張っていたのに
何の心構えも準備も出来ていないまま
人生を終わりにしなくてはいけなくなった時
人はどんな事を思うのでしょうか?

四十九日までは、魂はこの世に居ると聞きますが
どんな気持ちで、どこでどのように
過ごしているのでしょうか?

そんな事ばかり考えて、辛くてたまりません…。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

亡き人との『出会い直し』という『成仏』

前回のご相談と併せて拝読させていただきました。お母様のご命終に哀悼の意を表します。

南無阿弥陀仏

さて、一人の人の人生を死に際や死に様だけで『無念』と言い切ってしまうのはどうでしょうか。生まれて死ぬまでが人生です。(もちろん生前・死後にもその人生の背景・あとがきはありますが)
あなたの知らないお母様の時間もあったわけです。そのすべてが死に際や死に様だけでまとめられてしまうならばそれこそお母様も無念ではないでしょうか。お母様に幸せな時間はなかったのでしょうか?そんなことはないでしょう。あなたに出会えたこともお母様にとっては幸せの一つであったことでしょう。

今、お母様が念じるとしたら自分の死への納得ではなく、娘さんであるあなたが命の事実と向き合うことでしょう。

確かに人は誰しも自分の『死期』はわかりません。しかし病に伏したものがそれを全く見当もつかないかと言うとそれは疑問です。言葉では「治そうと、治ると思って頑張っている」と伝えていても内心はどうであったかは本人にしかわかりません。

どんなに辛かっただろう
どんなに無念だっただろう
どんなに怖かっただろう…

残された者の気持ちとしてそれは痛切なものがあります。

しかしそれは「残された者の気持ち」=「残された者がきっと本人はこうだったのでは?と勝手に思いはかる気持ち」であって「本人の気持ち」ではありません。

「本人の気持ち」は本人にしかわからないのですから、その本人を『無念』としてしまっているのは本人ではなく残された者、つまりあなたなのです。

ですから、あなたにとってお母様の『成仏』とは「あなたの中のお母様への気持ち」の成仏です。
それはけしてお母様を忘れてなかったことにしていくのではなく、むしろいよいよ深くお母様の命の事実、お母様から教えてもらったあなたの命の事実と向き合っていくことです。

ご自身の姿に目覚めた時、その時そこにお母様の『成仏』があります。なぜならば『仏様』とは真実・事実を教えてくれる存在の尊称だからです。
あなたにそれを教えてくれるのはまぎれもなく『仏様としてはたらいてくださるお母様』です。
それが亡き人との『出会い直し』という『成仏』です。それは四十九日などという日数にとらわれません。あなたが手を合わせ、思いはせる時にいつでも仏様としてのお母様があなたを見守っているのです。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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あなたの心が仏と成るために

美千さん初めまして。
謹んで、お母さまのご冥福をお祈りいたします。

>皆さん『納得のいく死』が出来るわけも無いし、そもそも死にゆく事に本人も家族も『納得』や『覚悟』なんてそう簡単には出来ません。
その通りだと思います。
その在り方も、死への向かい方も、一人として全く同じものはない、とも思います。
それは、私と他の回答僧に違いがあるように。美千さんとお母さまの間でも、想いには違いがあると思いますし、相手のことをわかっているようでも、それは「想像」の範囲内です。

>そんな『無念』な思いで旅立った魂
と感じるのは、あなた自身の想像です。本当かどうかは確認しようがありません。
でも私たちはそのように感じてしまう。思い悩んでしまう。だから供養があるのです。

少し想像してみてください。
>話が出来たら、どれだけ辛かったか聞きたい…
>今、どう思っているのか聞きたい…
と書いてらっしゃいますが、病に伏しているとき、お母さまに同じようなことを聞きたいと思いましたか?
「きっと辛いよね? どれくらい辛い?」と聞きたいと思いましたか?
それとも。
何か前向きなことを考えてもらったり、励ますようなことを言ったり、感謝を伝えたりしましたか?
美千さんの言葉を拝読していると、きっと後者だったんじゃないかと思います。
励まして、元気づけて、笑ってもらおうとしていたのではないですか?

これから先できることも、きっと同じです。
どんな言葉をかけたら、どんな姿をみせたら、お母さまが笑ってくれるか。
それを想像しながら、供養に励んでください。
それがきっと、美千さんとお母さまが共に仏になる方法です。

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有り難し
おきもち

本立寺の住職をしながら、臨床心理士として医療・教育現場で活動しております。...
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質問者からのお礼

吉武文法様、ご回答有難うございます。
では、母は『納得』をして旅立ったのでしょうか…。
病に伏す中で、自分の死期を悟り納得をしていたのでしょうか…。
一度だけ、ものすごく悲しそうな顔をして無言で涙を流していた事があります。
その時の母の顔が、脳裏に焼付いて…思い出す度に胸が締め付けられます…。

高野光拡様、ご回答有難うございます。
母の心が折れないよう、励まし勇気付けようと必死でした…。
聡明で何でも物事を納得のいくまで理解して前に進みたい母でしたので
現状(病状)はとても知りたい事だったと思います。
それを一切私達に聞かず、自分では死期を悟って覚悟をしていたのかと思うと
そんな辛い状況でも、私達が必死で隠そうとしている事に気遣ってくれていたかと思うと
尚更胸が痛みます…。

お二人のお言葉は、とても有り難いお言葉なのですが…
まだまだ未熟な私には、尚更母が可哀想に思えて仕方ありません。
申し訳ございません…。

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