全体と一体となる具体的な修行を教えていただければ幸いです。
お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。
宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。
宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。
地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。
今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。
我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。
「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。
「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。
各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
一即一切、一切即一
禅宗ならば威儀即仏法で作務や坐禅。
浄土教や日蓮宗ならば一念三千で念仏や題目。
密教ならば梵我一如で加持や観法。
読経だってそうですし、合掌礼拝ひとつ取ってみても同じです。もっと言えばレジでお会計してもらった時に「ありがとうございます」と一言添えるだけでも同じです。
ただ、全体と一体になろう一体になろうと頑張ると、結局は我を張ることになってしまいます。正しい師の下につき、当たり前のことを素直に習い、当たり前にやるだけです。まずはお寺の坐禅会や各種講のような場へGO!!です。変に気合を入れず、仏道に親しみたいくらいのつもりで行ってみましょう。
ちなみに仏教での無の語はnothingではなく、allでありeveryoneです。nothingから1が生じ、無限へと膨らんでいく発想は老荘思想の道(タオ)ですね。
質問者からのお礼
大悲先生
他宗派のみならず老荘思想などの幅広い学識と経験からのお答えありがとうございます。
浅学な者の理解としては、「無」はあまりにも無限であり限定したり特定することができない。独立した個ではありえず、「無」の全体を把握することも破壊することもできない。「無」は、原初から変わらないしこれからも変えることができない。有無の概念の生じる以前の状態であり、変わることがなくあらゆる存在の根底にある。
あらゆる存在の存在たらしめる以前が「無」である。「無」によってあらゆる可能性と存在が現れる可能性がある。
「思考」は無量・無重量・無物質・無形ですが、概念と言葉が結びついてあたかも存在しているかのように振る舞っています。「思考」の特性としてほうっておけば消えていきます。
聞こえるままに、見えるままに識別せず、自動的な分別を観察しています。湧き起こってくる「思考」にかまうことなく、思量しないように努めていきます。当たり前に起こっている「今ここ」での新鮮な体験を通して一体不離に気づくよう努めてまいります。