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苦って修行でしたっけ?

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有り難し有り難し 80

お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。
「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか?
四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか?
私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか?
苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか?
生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?

2025年4月11日 0:59

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

けして仏教的正しさが求められているわけではないので

ご相談拝読しました。お気持ちは分りますが、なかなかどう回答するかというのは難しい問題もあるのです。

お釈迦様のような対機説法(相手の能力や状態に応じた話をする)とまではいかずとも、まず聞いてもらう、そして受け入れてもらう内容を模索するのが回答僧の課題です。

相談者の皆様はほとんどの場合は、仏教を学びたいとか仏教の修行をしたいのではなく、自分に降りかかった問題を解決したいというのがご希望でしょう。

仏教的には、もちろんあなたがおっしゃるとおり、仏様というのはキリスト教などの一神教における神、つまりは運命の支配者や世界の創造主ではありませんから、仏様が苦難を我々に与えるわけではありません。

そして苦というのはどこにあるかというと、おそらく多くの方は自分の外にあると思っている。すなわち嫌な出来事や理不尽な相手が苦の原因であって、それを取り除けばいいのだという考えです。でも仏教的には苦の原因とは自分の内側の煩悩にあるわけです。

その認識のズレを無視していきなり仏教的正論を振りかざしてもまず受け入れてもらえません。

「何?私が悪いの?こんな酷い目にあっているのに!?」

と拒絶されて終わるのが目に見えます。だから相談者様の現状認識に沿いながら、まずはその苦しい気持ちと状況を受け止め、そこで冷静になって現状を認識し、問題の本質を見極め、徐々に仏教的思考や実践に向かうというのが理想的回答です。

なので回答は基本的には相談者様に向けたオンリー1の内容なのです。それがこうして共有されるというところにここhasunohaの有り難さがあります。

私が「えっ?」と思うものでも他の人には響いたり、その逆だったりということもあるのです。

起こってくる出来事は選べずとも、その起きた出来事をどう感じるかというところに苦の問題の本質があると私は思います。自業自得というのはそういうことです。その本質に至るには様々な道や方便(手立て)があるのでしょう。

あなたも他の方の相談やそれに対する回答はあくまでも参考に留め、あなた自身の疑問があればここでお話しください。

2025年4月11日 9:19
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有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

法門無量誓願学 苦も楽も導き、学びとなして自己を開発せん。

四弘誓願文といういわば仏教の宗教精神、菩提心を要約した短い誓願のお経にこうあります。「法門無量誓願学」=法門は無量なれども学びとなすことを誓願いたします、と。どんな事象もそれは仏の試練というより導き。自分によって良いことも悪いことも苦も楽も学びとしますよ、と。そのご縁、機縁を学びとして自己の人格を向上させますよ、と。自分自身の本来の仏のはたらきをうち開いて、無問題で大丈夫になること、仏の観自在力が開かれることを開発(かいほつ)ともいいます。
人生におけるどんな困難も楽しいことも「苦」なのです。「苦」とはくるしい、ではなく、ドゥッカ。思い通りにならないコト。自分の願望や期待や設定やマイルールうから自由で予測不可能でトリッキーなさまのこと。自分=こちら側の脳の捉え方とはまるで別の様相をしていることを「苦」というのです。
日本語、漢字なので「苦しい」と解釈される方も多いですが、老病死も老病死にありながらも必ずしも苦しいわけではないはずでしょう。病気でも病気を忘れている、年齢・老いを忘れている、安らかな死というものだってあるはずです。苦=苦しいという読みではないのです。
平たい表現をいたしますと、私が今いる部屋の外では飼っているニワトリが100デシベル越えの爆音でコケコッコーを数十回繰り返しています。目が覚めてしまいます。ですが自然界に住む動物、生物、鶏の習性であり天然、自然です。こちら側の願いや希望通りにはなってくれません。🐔ですが、それを取り上げずにわたくし「せざる」心でいる時には鳴いていても問題になりません。苦しいとか、思い通りにならんとかではなく、ただ、純粋にコケコッコーという事象があるだけ。法門とは悟り涅槃という聡明で安楽なるこころへの導きです。どんな困難も苦も楽もとびこえて最初の時点ではただ無垢清浄な事象=仏のさまなのです。ありがたいことに、それがどのようなことであったとしても。それを機縁として、たとえ困難であったとしてもそれをジャンプ台、上り台、きっかけ、学び、軌道修正、転機としてより良い方向、無問題、安楽、静寂、聡明さ、より善い方向へ導き、向かわせることが仏教の菩提心的な生き方と言えましょう。
修行とは我慢ではありません。事実をよくみつめて、そこに人の見解や価値を超えて「一大事因縁なり」と見極めることが大事です。私も学びになりました。ありがとうございます。

2025年4月12日 5:07
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

苦の対処法が修行

苦はただ苦だと感受するだけで、それだけでは修行とは言えません。
 仏教では楽でさえも苦が少ないだけですべての現象は苦・空しいものと見ます。
 楽しめの苦を受けたとき、苦しい苦を受けたとき、それに対して心が反応します。その心のあり方を、悩み苦しみ少なく、切り抜けていけるようにすることが、うまく修行できていることだと見ます。
 生きることは苦でたいへんな事ばかりで、苦を減らすには、何か技術を習得する学びや、生活の糧を得る仕事をしなければなりません。学びも仕事も、できた分は修行の成果が多かった、できない分は修行の成果が少なかったと見ます。
 うまく行くか行かないかの基準は、我が多いか少ないかだと思います。何を感受しても、我が強いと、好き嫌いの反応が大きくなって大変だと思います。我が少ないと、では、どう対処しましょうか、と、冷静に切り抜けやすいと思います。
 学びや仕事も、自分がやりやすい、得意そうなものを選んで、淡々と進むと苦が少なくて比較的楽だと思います。
 仏教で苦が修行とざっくり言うのは、以上のことを省略して言っているのではないかと思います。

2025年4月12日 9:00
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

苦から卒業するためには修行が必要

四諦の一番初めが苦諦です。
生き物には必ず苦があるのです。
苦の原因は渇愛・煩悩です。
生への執着があるまま死んでも、輪廻転生してしまうので苦のループから卒業できません。
しかし、悟りを開いて(日本語で言うところの「迷わず成仏して」)、苦のループから卒業する方法があるとブッダは発見されました。
それが四諦の四番目の道諦であり、それこそが修行なのです。
つまり仏教における修行とは、苦から卒業するための訓練方法なのです。
「私もあなたもまだ悟っていないんだから、夏が暑く水が下に流れるように、私達に苦があるのは当たり前のことです」と、まずは現状を受け入れるしかないのです。
そして、苦が嫌なら悟りを目指すしかない。
悟って苦の原因になる煩悩を消しきって涅槃(平安なる滅び)に入るためには、八正道、戒・定・慧の三学の修行が必要であり、例えば安易に自殺しても、知性のないミミズにでも転生しちゃったら修行すらできず苦しみながら這いずり回ることになります。
だからこそ、人の身に生まれ、仏教のある国に暮らせる喜びを感じながら少しでも修行しましょうというのが仏教です。
また、より悟り易い環境である浄土に往生(転生)することを目指す浄土信仰も人気です。

2025年4月11日 6:17
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

吉武文法師様、願誉浄史師様。丁寧で分かりやすいご回答ありがとうございます。

確かに相談者の中には切羽詰まって縋ってここに書き込む方もおられるかと思います。それを理論でぶった切るのは論外だと私も思ってます。でもhasunohaで質問している以上、相談者は仏教の立場からの視点や気づきを求めているのでは無いかと。私は、それぞれの相談者がいまの状況を「修行」と思い込んで自分を追い込んでるように感じてしまったので(まあ、私だけなのかも知れません)疑問を呈しました。

丹下 覚元師様
藤本晃(慈照)師様
遅れましたが丁寧なご解説ありがとうございます。
改めて学びとなりました。
「有り難し」が思ったより付いてますので、みなさまのご回答が響いているのがわかります。
ありがとうございました。

煩悩スッキリコラムまとめ