苦って修行でしたっけ?回答受付中
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。
「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか?
四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか?
私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか?
苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか?
生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
けして仏教的正しさが求められているわけではないので
ご相談拝読しました。お気持ちは分りますが、なかなかどう回答するかというのは難しい問題もあるのです。
お釈迦様のような対機説法(相手の能力や状態に応じた話をする)とまではいかずとも、まず聞いてもらう、そして受け入れてもらう内容を模索するのが回答僧の課題です。
相談者の皆様はほとんどの場合は、仏教を学びたいとか仏教の修行をしたいのではなく、自分に降りかかった問題を解決したいというのがご希望でしょう。
仏教的には、もちろんあなたがおっしゃるとおり、仏様というのはキリスト教などの一神教における神、つまりは運命の支配者や世界の創造主ではありませんから、仏様が苦難を我々に与えるわけではありません。
そして苦というのはどこにあるかというと、おそらく多くの方は自分の外にあると思っている。すなわち嫌な出来事や理不尽な相手が苦の原因であって、それを取り除けばいいのだという考えです。でも仏教的には苦の原因とは自分の内側の煩悩にあるわけです。
その認識のズレを無視していきなり仏教的正論を振りかざしてもまず受け入れてもらえません。
「何?私が悪いの?こんな酷い目にあっているのに!?」
と拒絶されて終わるのが目に見えます。だから相談者様の現状認識に沿いながら、まずはその苦しい気持ちと状況を受け止め、そこで冷静になって現状を認識し、問題の本質を見極め、徐々に仏教的思考や実践に向かうというのが理想的回答です。
なので回答は基本的には相談者様に向けたオンリー1の内容なのです。それがこうして共有されるというところにここhasunohaの有り難さがあります。
私が「えっ?」と思うものでも他の人には響いたり、その逆だったりということもあるのです。
起こってくる出来事は選べずとも、その起きた出来事をどう感じるかというところに苦の問題の本質があると私は思います。自業自得というのはそういうことです。その本質に至るには様々な道や方便(手立て)があるのでしょう。
あなたも他の方の相談やそれに対する回答はあくまでも参考に留め、あなた自身の疑問があればここでお話しください。
法門無量誓願学 苦も楽も導き、学びとなして自己を開発せん。
四弘誓願文といういわば仏教の宗教精神、菩提心を要約した短い誓願のお経にこうあります。「法門無量誓願学」=法門は無量なれども学びとなすことを誓願いたします、と。どんな事象もそれは仏の試練というより導き。自分によって良いことも悪いことも苦も楽も学びとしますよ、と。そのご縁、機縁を学びとして自己の人格を向上させますよ、と。自分自身の本来の仏のはたらきをうち開いて、無問題で大丈夫になること、仏の観自在力が開かれることを開発(かいほつ)ともいいます。
人生におけるどんな困難も楽しいことも「苦」なのです。「苦」とはくるしい、ではなく、ドゥッカ。思い通りにならないコト。自分の願望や期待や設定やマイルールうから自由で予測不可能でトリッキーなさまのこと。自分=こちら側の脳の捉え方とはまるで別の様相をしていることを「苦」というのです。
日本語、漢字なので「苦しい」と解釈される方も多いですが、老病死も老病死にありながらも必ずしも苦しいわけではないはずでしょう。病気でも病気を忘れている、年齢・老いを忘れている、安らかな死というものだってあるはずです。苦=苦しいという読みではないのです。
平たい表現をいたしますと、私が今いる部屋の外では飼っているニワトリが100デシベル越えの爆音でコケコッコーを数十回繰り返しています。目が覚めてしまいます。ですが自然界に住む動物、生物、鶏の習性であり天然、自然です。こちら側の願いや希望通りにはなってくれません。🐔ですが、それを取り上げずにわたくし「せざる」心でいる時には鳴いていても問題になりません。苦しいとか、思い通りにならんとかではなく、ただ、純粋にコケコッコーという事象があるだけ。法門とは悟り涅槃という聡明で安楽なるこころへの導きです。どんな困難も苦も楽もとびこえて最初の時点ではただ無垢清浄な事象=仏のさまなのです。ありがたいことに、それがどのようなことであったとしても。それを機縁として、たとえ困難であったとしてもそれをジャンプ台、上り台、きっかけ、学び、軌道修正、転機としてより良い方向、無問題、安楽、静寂、聡明さ、より善い方向へ導き、向かわせることが仏教の菩提心的な生き方と言えましょう。
修行とは我慢ではありません。事実をよくみつめて、そこに人の見解や価値を超えて「一大事因縁なり」と見極めることが大事です。私も学びになりました。ありがとうございます。
苦の対処法が修行
苦はただ苦だと感受するだけで、それだけでは修行とは言えません。
仏教では楽でさえも苦が少ないだけですべての現象は苦・空しいものと見ます。
楽しめの苦を受けたとき、苦しい苦を受けたとき、それに対して心が反応します。その心のあり方を、悩み苦しみ少なく、切り抜けていけるようにすることが、うまく修行できていることだと見ます。
生きることは苦でたいへんな事ばかりで、苦を減らすには、何か技術を習得する学びや、生活の糧を得る仕事をしなければなりません。学びも仕事も、できた分は修行の成果が多かった、できない分は修行の成果が少なかったと見ます。
うまく行くか行かないかの基準は、我が多いか少ないかだと思います。何を感受しても、我が強いと、好き嫌いの反応が大きくなって大変だと思います。我が少ないと、では、どう対処しましょうか、と、冷静に切り抜けやすいと思います。
学びや仕事も、自分がやりやすい、得意そうなものを選んで、淡々と進むと苦が少なくて比較的楽だと思います。
仏教で苦が修行とざっくり言うのは、以上のことを省略して言っているのではないかと思います。
苦から卒業するためには修行が必要
四諦の一番初めが苦諦です。
生き物には必ず苦があるのです。
苦の原因は渇愛・煩悩です。
生への執着があるまま死んでも、輪廻転生してしまうので苦のループから卒業できません。
しかし、悟りを開いて(日本語で言うところの「迷わず成仏して」)、苦のループから卒業する方法があるとブッダは発見されました。
それが四諦の四番目の道諦であり、それこそが修行なのです。
つまり仏教における修行とは、苦から卒業するための訓練方法なのです。
「私もあなたもまだ悟っていないんだから、夏が暑く水が下に流れるように、私達に苦があるのは当たり前のことです」と、まずは現状を受け入れるしかないのです。
そして、苦が嫌なら悟りを目指すしかない。
悟って苦の原因になる煩悩を消しきって涅槃(平安なる滅び)に入るためには、八正道、戒・定・慧の三学の修行が必要であり、例えば安易に自殺しても、知性のないミミズにでも転生しちゃったら修行すらできず苦しみながら這いずり回ることになります。
だからこそ、人の身に生まれ、仏教のある国に暮らせる喜びを感じながら少しでも修行しましょうというのが仏教です。
また、より悟り易い環境である浄土に往生(転生)することを目指す浄土信仰も人気です。
質問者からのお礼
吉武文法師様、願誉浄史師様。丁寧で分かりやすいご回答ありがとうございます。
確かに相談者の中には切羽詰まって縋ってここに書き込む方もおられるかと思います。それを理論でぶった切るのは論外だと私も思ってます。でもhasunohaで質問している以上、相談者は仏教の立場からの視点や気づきを求めているのでは無いかと。私は、それぞれの相談者がいまの状況を「修行」と思い込んで自分を追い込んでるように感じてしまったので(まあ、私だけなのかも知れません)疑問を呈しました。