世の中の悪意について
こんばんは。
この世の中には、人の事を傷つけても何とも思わない人、むしろ傷付けようとしたり、それを快楽にしている人も多い様に思います。
例えば、仕事が遅い人は怒られてきつい言葉を言われて当たり前。犯罪を犯した人はきつい言葉を言われて辛い思いをして当たり前。
犯罪の被害者であればともかく、ワイドショー等、他人に対しての容赦ない批判が目に付きます。
なんだかあまりにそういった考えが世の中の常識になり過ぎていて、世の中が良く分からないです。怖いです。
そういった事を感じると傷付いてしまうので、いつもは付き合う人や場所をできる限り選んでいますが、不意にそういった価値観に出くわしてしまいます。。
そういった人も疲れていたり、何かのプレッシャーからその様な事をしてしまうのであれば、この世界は悪循環なのでしょうか。
私自身、自分の気持ちを常にオープンであり、クリアに保つ様に気をつけていますが、そういった価値観を感じると、心が少し荒みますし、悲しくなります。けれど、怒りとなって人に向かわない様に気をつけています。
誰も意図的に傷つけたくはないし、できれば傷付きたくもないです。
私は傷付きやすい様で、この世界を生き抜いていくのが辛い時があります。
どの様に心を保っていけば良いでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『彼岸(ひがん)に渡れ』。
傷つきたくないですよ。
私も傷つきたくないです。
でも傷つくことを恐れすぎて
相手を傷つけてしまう。
そんな面もあるのではないかと思います。
いっそ鈍感になれれば、見ないふりできればどんなに楽かと思うでしょう。
でもそれだと、ちょっとの傷もよけい際立って感じられてしまいませんか。
鈍感でいるために、ますます傷つけたり、怒りに任せたり、快楽にふけることをやめられなくなってしまうかもしれません。
仏教ではこれらを貪瞋痴(とんじんち)といいます。快楽(貪)・怒り(瞋)・鈍感(痴)の三毒から離れることが、仏教の説く心の平安、すなわち彼岸(ひがん)であるとされます。
反対にこの世の価値観でいうなら、
心の平安とは、快楽にも怒りにも身を預けて、とことん鈍感でいることだとなるでしょう。
鈍感でいれば、そこそこ平気で生きていられるでしょうから。俗に幸福とは、鈍感でいることだとさえ言えるかもしれません。私たちって何だかんだ言っても普段からそうやって生きているところがありそうですね。
ただごまかしきれないと思います。こんなこといつまでも続けなきゃいけないのかって気づいたときにはもう遅いのではないでしょうか。
『なぜ私が(あの人が、人間が)こんな目に』というような根本的な苦しみ、悲しみには応えてくれない気がするからです。
仏教の説く『彼岸』は、その問いにひとつの示唆を与えてくれるように思います。
では彼岸とはなにか?
どうか問うてください。知識だけで終わらないために。本当に心を保つために。
大事なことをお伝えしていませんでした。
三毒を離れると申しましたが、あくまで「離れる」であって「消す」ではありません。
「解放」、といってもいいかもしれません。
その意味を、どうかご理解ください。
ある意味、傷つきやすくなければ、
分からないままだったこともあると。気づくことがあるのではないでしょうか。
まるで『彼岸』、向こう岸から、こちら側を眺めたときに
見え方が変わるように。
そうご理解いただきたいです。
もちろんこれは仏教のというより、私自身の仏教解釈なので
参考程度にしていただければ幸いです。
質問者からのお礼
返信が遅れてしまって大変申し訳ないです。
少し理解できるまで何度も読んでから返信しようと思っていたらそのままになってしまっていました。
何かあったら節々に読み返す言葉として大事にしております。
ありがとうございます。