写仏、仏画の功徳について
お忙しいところ閲覧ありがとう御座います。
私の生業は絵を描く関係の仕事なのですが
このたび、友人を自殺で失くし、供養のため
何かできることが無いかと思い、写仏や仏画等による供養があることを知りました
お地蔵様や観音様を好んで描いているのですが
本当に供養になっているのでしょうか
自殺した友人のためになっているのか、
自己満足になっているだけなのか、
よろしければお教えください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
讃嘆供養(さんだんくよう)-亡き人との出会い直し
ご相談拝読しました。供養というのはかなり深い問題であると思います。どうぞこれからご自身の思いや疑問をごまかさずに問い続けていって欲しいと思います。
供養というのはもともとサンスクリット語のpūjā(プージャー)またはpūjanā(プージャナー)の訳で、仏・法・僧という仏教で大事な三つの宝とされるものにお供えをすることです。
ですからあなたが亡きご友人のために仏画を描いて捧げるというのならそれも供養の一つということになるでしょう。
しかしここで問題をごまかさないならば必ず疑問が生じます。
何で供えるの?
誰のために供えるの?
という問題です。つまりあなたが気づいた「自己満足になっているだけなのか」ということに突き詰められていくでしょう。
私たちが亡き人のために何かしたいという思いの始まりはけして不純なものではないでしょう。
しかしその不純ではないはずの思いをよくよく深く問うてみると、いつのまにか私たち生きている者は、亡き人を供養されないと可哀想な人として見てはいないか?生よりも死を暗く寂しく悲しいものとして見てはいないか?結局は自分の納得・自分の満足のためではないか?という壁にぶち当たります。
その時に気づくのです。
迷っているのは生きている私の方であったと。
亡き人は命の終わりという事実を私に伝えているだけなのに、それを受けてあれこれと計らい、迷っているのは実は私だったのだと。
その時、その問いをあきらかにしてくれた亡き人が私のために仏様(真実を伝え迷いを晴らしてくださる存在)としてはたいていてくださっていることに気づくならば、そこには亡き人との出会い直し、つまりは亡き人を仏様として見出していく讃嘆供養(さんだんくよう)という供養の道が開かれてきます。
どうぞこれからも仏画を描き、亡きご友人と出会い続けてください。そしてあなたが問いをごまかさないのならば、必ずや仏様としての亡きご友人との出会い直しが訪れると思います。
南無阿弥陀仏
合掌
仏さまと向き合うところに、亡き人も共に居られることでしょう。
こんばんは。亀山純史と申します。
亡き友はあの世から、あなたの写仏や仏画が供養になっているとも、なっていないとも、語りかけてはきません。ですから、「本当にこれで良いのだろうか?」と、あなたは思っているのでしょう。
亡き友は、あなたに供養になっているとも、なっていないとも語りかけては来ませんが、写仏や仏画を通して、亡き友はあなたのもとに来られているのではないでしょうか。浄土真宗本願寺派の中西智海和上さまは、「人は去っても 拝む掌(て)の中に 帰ってくる」と詠まれました。また別の和上さまは、「人生のきびしい日暮らし、いとなみの中にあって、先だっていった肉親を慕い、お念仏申すところ、そこにわが親は、わが夫は、わが子は還相したもうているのである。」と申されました。
供養に関しては、宗派によってそのとらえ方は異なるとは思います。たとえば、浄土真宗においては、追善供養ということは申しません。しかし、仏さまと向き合うところに、亡き人も共に居られることでしょう。
写経や写仏の功徳
豆大福様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
写経や写仏の功徳は、尊く有り難い仏法を広法する、あるいは護持するということにおいての功徳があり、その功徳を亡くなられた方へも及ぼす回向によって、供養に資するところとなるのではないだろうかと存じます。
しかし、写経や写仏も、ただ機械的に写すだけで良いのかと申しますと、そうではなく、やはり、写経や写仏を通じての「菩提心」の受持、増大が大切となるものであると考えております。
やがて皆が悟りへと至れるために悟りを目指すという「菩提心」があって、写経や写仏も、仏道成就へと向けての一つの修行として取り組み、その功徳を皆の悟りへと向けて回向することが大切なものとなります。
その皆への回向の中には、当然に亡くなられましたご友人も含まれるところとなるのであります。
できましたら、写経や写仏後に、下記の普回向と略三宝をお唱え頂けましたら有り難くに存じます。
普回向
「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを。」
略三宝
「十方三世一切の諸仏 諸尊菩薩 摩訶薩 摩訶般若波羅蜜」
(じっぽうさんぜいっさいのしょぶつ しょそんぼさつ まかさつ まかはんにゃはらみつ)
あるいは、「十方三世一切仏、諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜」
(じーほーさんしーいーしーふー しーそんぶーさーもーこーさー もーこーほーじゃーほーろーみー)
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
吉武文法様
ご回答ありがとうございます。
讃嘆供養、出会いなおしですか…毎日毎日出会いなおして進んでいくんですね
確かに迷っているのは自分だと思います、特に親しかった方で自殺をされたので
どうして力になってあげられなかったのかと不甲斐なさが限りなく辛いです
そういう意味でも描くたびに仏様になった彼と再び出会えると信じようと思います。
ありがとうございました。合掌。
亀山純史様
ご回答ありがとうございます。
やはり向き合うことが大事という事なのですね…
正直本当の意味で向き合えているのか、怖がっていないか不安でたまりません
恨まれているんじゃないか、とも。
彼があの世で幸せになることを祈りつつ、写仏を続けようと思います。
ありがとうございました。合掌。
川口 英俊様
ご回答誠にありがとうございます。
写仏も写経と同じく供養となるのですね。回向を行うこと、承知いたしました。
彼と私も含め、一切衆生の菩提が大きくなるように祈ろうと思います。
ありがとうございます。合掌。