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写仏、仏画の功徳について

回答数回答 3
有り難し有り難し 34

お忙しいところ閲覧ありがとう御座います。
私の生業は絵を描く関係の仕事なのですが
このたび、友人を自殺で失くし、供養のため
何かできることが無いかと思い、写仏や仏画等による供養があることを知りました

お地蔵様や観音様を好んで描いているのですが
本当に供養になっているのでしょうか

自殺した友人のためになっているのか、
自己満足になっているだけなのか、
よろしければお教えください。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

讃嘆供養(さんだんくよう)-亡き人との出会い直し

ご相談拝読しました。供養というのはかなり深い問題であると思います。どうぞこれからご自身の思いや疑問をごまかさずに問い続けていって欲しいと思います。

供養というのはもともとサンスクリット語のpūjā(プージャー)またはpūjanā(プージャナー)の訳で、仏・法・僧という仏教で大事な三つの宝とされるものにお供えをすることです。

ですからあなたが亡きご友人のために仏画を描いて捧げるというのならそれも供養の一つということになるでしょう。

しかしここで問題をごまかさないならば必ず疑問が生じます。

何で供えるの?
誰のために供えるの?

という問題です。つまりあなたが気づいた「自己満足になっているだけなのか」ということに突き詰められていくでしょう。

私たちが亡き人のために何かしたいという思いの始まりはけして不純なものではないでしょう。
しかしその不純ではないはずの思いをよくよく深く問うてみると、いつのまにか私たち生きている者は、亡き人を供養されないと可哀想な人として見てはいないか?生よりも死を暗く寂しく悲しいものとして見てはいないか?結局は自分の納得・自分の満足のためではないか?という壁にぶち当たります。

その時に気づくのです。

迷っているのは生きている私の方であったと。

亡き人は命の終わりという事実を私に伝えているだけなのに、それを受けてあれこれと計らい、迷っているのは実は私だったのだと。

その時、その問いをあきらかにしてくれた亡き人が私のために仏様(真実を伝え迷いを晴らしてくださる存在)としてはたいていてくださっていることに気づくならば、そこには亡き人との出会い直し、つまりは亡き人を仏様として見出していく讃嘆供養(さんだんくよう)という供養の道が開かれてきます。

どうぞこれからも仏画を描き、亡きご友人と出会い続けてください。そしてあなたが問いをごまかさないのならば、必ずや仏様としての亡きご友人との出会い直しが訪れると思います。

南無阿弥陀仏

合掌

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有り難し
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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

仏さまと向き合うところに、亡き人も共に居られることでしょう。

こんばんは。亀山純史と申します。

亡き友はあの世から、あなたの写仏や仏画が供養になっているとも、なっていないとも、語りかけてはきません。ですから、「本当にこれで良いのだろうか?」と、あなたは思っているのでしょう。

亡き友は、あなたに供養になっているとも、なっていないとも語りかけては来ませんが、写仏や仏画を通して、亡き友はあなたのもとに来られているのではないでしょうか。浄土真宗本願寺派の中西智海和上さまは、「人は去っても 拝む掌(て)の中に 帰ってくる」と詠まれました。また別の和上さまは、「人生のきびしい日暮らし、いとなみの中にあって、先だっていった肉親を慕い、お念仏申すところ、そこにわが親は、わが夫は、わが子は還相したもうているのである。」と申されました。

供養に関しては、宗派によってそのとらえ方は異なるとは思います。たとえば、浄土真宗においては、追善供養ということは申しません。しかし、仏さまと向き合うところに、亡き人も共に居られることでしょう。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

写経や写仏の功徳

豆大福様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

写経や写仏の功徳は、尊く有り難い仏法を広法する、あるいは護持するということにおいての功徳があり、その功徳を亡くなられた方へも及ぼす回向によって、供養に資するところとなるのではないだろうかと存じます。

しかし、写経や写仏も、ただ機械的に写すだけで良いのかと申しますと、そうではなく、やはり、写経や写仏を通じての「菩提心」の受持、増大が大切となるものであると考えております。

やがて皆が悟りへと至れるために悟りを目指すという「菩提心」があって、写経や写仏も、仏道成就へと向けての一つの修行として取り組み、その功徳を皆の悟りへと向けて回向することが大切なものとなります。

その皆への回向の中には、当然に亡くなられましたご友人も含まれるところとなるのであります。

できましたら、写経や写仏後に、下記の普回向と略三宝をお唱え頂けましたら有り難くに存じます。

普回向

「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを。」

略三宝

「十方三世一切の諸仏 諸尊菩薩 摩訶薩 摩訶般若波羅蜜」
(じっぽうさんぜいっさいのしょぶつ しょそんぼさつ まかさつ まかはんにゃはらみつ)

あるいは、「十方三世一切仏、諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜」
(じーほーさんしーいーしーふー しーそんぶーさーもーこーさー もーこーほーじゃーほーろーみー)

川口英俊 合掌

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質問者からのお礼

吉武文法様
ご回答ありがとうございます。
讃嘆供養、出会いなおしですか…毎日毎日出会いなおして進んでいくんですね
確かに迷っているのは自分だと思います、特に親しかった方で自殺をされたので
どうして力になってあげられなかったのかと不甲斐なさが限りなく辛いです
そういう意味でも描くたびに仏様になった彼と再び出会えると信じようと思います。
ありがとうございました。合掌。

亀山純史様
ご回答ありがとうございます。
やはり向き合うことが大事という事なのですね…
正直本当の意味で向き合えているのか、怖がっていないか不安でたまりません
恨まれているんじゃないか、とも。
彼があの世で幸せになることを祈りつつ、写仏を続けようと思います。
ありがとうございました。合掌。

川口 英俊様
ご回答誠にありがとうございます。
写仏も写経と同じく供養となるのですね。回向を行うこと、承知いたしました。
彼と私も含め、一切衆生の菩提が大きくなるように祈ろうと思います。
ありがとうございます。合掌。

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