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お金を貸すのは「慈悲」と言えるのだろうか?

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ご質問させて頂きますハルソラと申します。

最近、立て続けにお金を貸して欲しいと、知人の三人から頼まれました。

その理由…
一人目は、父親が急病で倒れたが、手術費用が捻出できない。

二人目は、新たな土地で、仕事を始めるが引っ越し費用が足りない。

三人目は、母親が重病で入院しており入院費用が高く、給料日までの生活費がない。

…それぞれに理由が深刻、また他に頼る人がいないというので、きっちり借用書を作成した上で貸しました。

困っている人、苦しんでる人を助ける「慈悲の心」のつもりで貸し、また貸したお金は返ってきたのですが、感触として不愉快で人に良い事をした清々しさがあまりなかったのです。

その三人はギャンブル、お酒、浪費癖などの話も聞いていたので、はっきり言って自業自得な部分もあると思います。

お金の貸し借りはトラブルにも発展しやすく、返ってきたとしても、その後の人間関係に悪影響を及ぼしかねません。

お金を貸す事は「慈悲」と言えたのでしょうか?次に貸してくれと言われた時に、なんと諭すのが正しいのでしょうか?

すっきりしない気持ちがあります。お坊さまのご回答よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

慈悲心による布施ならば、それは三輪清浄の布施。

こんばんは。亀山純史と申します。

お金に困っている人に、単にお金を貸すことは、仏教で説くところの慈悲ではないと私は考えます。仏教に「三輪清浄」という言葉があります。これは布施を実践する場合に、布施をする人、布施を受ける人、そして布施の品物、この3つの事柄に執着しないことが正しい布施であり、そのような布施を「三輪清浄の布施」あるいは「三輪空寂の布施」と言うのです。つまり、「私はあの人に、お金を貸してやったんだ。」あるいは、「貸したお金はちゃんと返してもらわなければ困る。」などという思いを持たない布施が、真の布施であり、慈悲の心が通った布施だと思います。

なお、今度借りに来た時にはどう諭すか、ということですが、借りに来た時点で、すでにお金には困っているわけですから、そこで諭すことは難しいのではないかと思います。それと、貸すことにためらいがあるのであれば、「今回は貸せない。」とはっきり言うべきでしょう。なお、貸せない理由は言う必要はありません。それは、もしも、こちらに貸す義務があるのに、それを拒否するのであれば、ちゃんと理由を言うべきですが、今回のご相談では、本来こちらには貸す義務はないわけですので、仮にそれで「友だち思いじゃない!」なんて言われても、理由を言う必要はないのです。(電話での訪問販売もそうですね。こちらに買う義務はないわけですから、断る理由は必要ありません。)

以上が私からの回答です。ご参考になさってみてください。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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拝読させて頂きました。
知り合いの方にお金を貸すことはあげるのと同じくらいのことです。その時決して見返りを求めないことです。
それでも人間関係はまえのようには戻らない覚悟が必要です。
それでもいいならば布施行としてなさってもいいかと思います。

お金に困っているならば法務局等の相談窓口もあります。多重債務の方は法的に対応して頂くことが望ましいと思います。

人間ですから喉元過ぎれば苦しさもなくなってしまうこともありますからね。

人と人とのつながりはお金ではありませんからね。

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Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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貸すのでは無く差し上げましょう。
それなら慈悲と言えます。
人の幸せを願い、苦しみを取り除くこと、それが慈悲です。
あなたは人を助けようとした、それは慈悲の心です。
ただし、今後はあなたの生活に支障のない範囲で差し上げましょう。
差し上げるものが無くなったら、もうありませんと言いましょう。
そうしないと、せっかくの慈悲の心も、返してもらえなかったら怒りや恨みの心に変わってしまいますからね。
くれぐれも、あなたの生活に支障のない範囲ですからね。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

「三輪清浄の布施」という布施をする人、される人、布施する物に執着しなければ「慈悲」であるのですね。
大変感銘を受けました。

一般的にも言うようにお金を貸すなら、あげるつもりで貸さなければ、心が煩わされますよね。

次からは「申し訳無いけど、お金を貸す事は出来ません。」とはっきりと言います。

お三方のご回答誠にありがとうございました!!

「仏教における慈悲」問答一覧

無償で人を助け続けることについて

はじめまして。 無償で人の要求に応え(助け)続けることとは、仏教的には何なのか、続けることに嫌な気持ちを持つ理由は何なのか、嫌になった場合はどうしたら良いのか、などお話伺いたいです。 きっかけはバイトです。 現在北欧に住んでおり、仕事はレストランでのバイトです。バイト先にはジプシーが大抵1日3人ほど来ます。 ジプシーとは、道で物乞いをするホームレスのような人々のことです。ヨーロッパで多く見かけられ、北欧にもいます。 彼らは決まって「カップとお湯をくれ」と横柄な態度で要求してきます。 私の何人かの同僚は、一切断っています。 理由は、1人の要求に応えると他のジプシーがどんどん来てお店がお客さんとジプシーで忙しくなるから、とのこと。 他の同僚と私は、たかがお湯を渡したところで減るものは無いし(店としては、カップ代の損失)、無銭でご飯を要求されているわけでも無いので、毎回要求されたら渡してきました。これで誰かが助かるなら渡した方が良いし、渡さないのは冷たいとも思ってました。 しかし、繰り返されるごとに段々嫌な気持ちになるようになりました。 お店が忙しいある日、1人のジプシーがいつも通り要求してきました。彼は2つ欲しいと言いました。ただでさえ忙しくてイライラしてるところに、嫌だなと思い始めてたジプシーの要求が来て、私は腹が立ちました。この怒りから早く解放されるために、彼に早く帰ってもらいたくて、私は2つお湯を渡しました。 ところが続けてまた別の1人のジプシーがお店にやって来てお湯を要求してきました。私の苛立ちは更に悪化して、お湯が無くなったと嘘をついて彼に早く立ち去ってもらおうとしました。 しかし彼はもらうまで帰ろうとしませんでした。なぜなら、前のジプシーが2つももらってるところを見たからです。 結局別のスタッフにお湯が無くなったことを説明してもらい、彼に帰ってもらいました。 なぜ私は、人助けを段々嫌になっていったのか、なぜある人は助けてある人には怒ったのか、自分の人助けへの感情や思考がわからなくなりました。お湯をあげる行為は1分で済み、それ以外の損害は私にはありません。 仏教的に、人助けとは何なのでしょうか、そもそも助けるという考えが誤っていますか。私の感情や思考方法について何かヒントがあれば教えてください。 最後までお読みいただきありがとうございました。

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慈悲の心を持つためには?

私は精神に病気を持ち、人生で2度の自殺を経験しています 生きる意欲がわいてこないというわけではなく、食べていくために働かなければならないということが受け入れられず、死のうとしました それはすでに自分の中で消化しすでに悩みではありません 問題は、食べていくために嫌な仕事をひたすらやり、その姿勢から同僚や上司をとても苦しめてしまったということです 今はその仕事をやめて無職ですが、以前人を苦しめてまで生きていた頃の自分を思い出すと、とてもやるせない気持ちになります 生きていくために仕方がない、それで周囲を傷つけてしまった こんなことなら死んでいたほうがはるかにましかもしれない、そういう道もあったんだと考えています 今は生きることに迷いもなく、死んでいくことも怖くはありませんし、私はあの世を信じていないので裁かれる心配もありません ただ、どうしても昔の自分の生き方に後悔を持って、今はそれに苦しんでいます 仮に因果応報が私の身に降りかかったとしても覚悟をして生きているので素直に裁かれるつもりはありません ただ、覚悟だけを頼りに生きると周囲の人にも覚悟を求めてしまい以前の自分と何も変わりません 自分は十分に傷ついたと思いますが、それを優しさに変えることができません 慈悲の気持ちを持つにはどうすればいいでしょうか?

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