自己肯定ができない
こんにちは、最近三十代に突入した者です。
数年前に人生を見つめなおして、夢に生きる人生を選び、
その夢はいま現在進行中で達成し、更なる飛躍を得ようとしているのですが
まったく達成感がなく自己肯定が出来ません。
夢を達成する為に、自分はこれしか出来ない、他は何一つうまく出来ない、
これが出来ないと本当に生きている価値がない、等と長年に渡り
自己否定を続けてきたせいなのかもしれません。
たぶん、私は夢の達成で他者からの自己肯定を望み、それを貰えれば
きっと自分を肯定できるだろうと信じていたのです。
けれどまったく出来ていません。人生はつまらないし自分は最悪なままです。夢の成就で褒めてもらっても一時は嬉しいのですが、すぐに無味無臭な人生に戻ります。
自己否定をすることで夢を掴み、その先に自己肯定が出来ない自分がいるというよくわからない結果になっています。
正直自分が嫌いなままでも生きてはいけるのですが、出来るなら好きになりたいし、自分が好きになることで誰かに好きになってもらう勇気も取り戻したい。
自己肯定とはどうしたらできるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お坊さんも自己肯定できずに悩む
多分それ、私の最大の悩みでもあります。
修行道場から帰って来て、1年、2年と経ち、どうも毎日モヤモヤする…オカシイ、こんなハズじゃない…なんだこの鬱々は…
そしてさらに数年経った冬の寒々としたある日に気付きました。「そうか、達成感が無いんだな…」毎日毎日が究極のルーティン。たまに法事やお葬式で褒めていただけたり、感謝していただいても一時は嬉しいのに、すぐいつものルーティンに…そう思うとなんだかジンワリ涙があふれてきました。
でも、私は恵まれていました。仏縁というのでしょうかね、それから2,3ヶ月という短い期間しか挟まず、曹洞宗布教師の最高位、特命布教師の老師のお話を聴かせていただくご縁に恵まれました。お坊さんの研修会でのお話だったのですが、その中で若い頃の苦悩を聴かせていただきました。
老師は元々、勉強が苦手だったそうです。でも、それではいけないと一念発起して勉強しました。正法眼蔵という本を読んだそうです。道元禅師という人の著書です。とりあえず全部読んでみて、愕然とした…思考の次元が違いすぎて何が書いてあるのかサッパリ理解できなかった…読めば読むほど胃が痛くなり、鬱々とし、病んでいった…そんな時期があったと。
その話を聴いて私は感じました。(そうか、老師ほどの人物でも達成感は無かったのだな…むしろ無くて当たり前だったんだ…無いからこそ頑張っていることの現れなんだ…)それから私の心はグッと楽になりました。
そしてつい4日前、道元禅師にも達成感が無かったことを知りました。正法眼蔵の中に「悟りを得たら、どこか足りないと感じる」と書かれていたのです。(参考:石井清純『構築された仏教思想 道元』)
本当は薄々気付いているでしょう?きっとこの先、更なる飛躍が完成形になったとしても、きっとどこか足りないのだろうなと。結局、達成感が無い…それを自分を好きになったり否定したりする理由にしてはいけないのですよ。それも恐らく気付きかけているのでしょう。
目指すべきものは、『自分』には無いのです。じゃあどこにあるか、それは私が伝えるべきか迷います。悩めば悩んだだけ、作品に深みが出るでしょう。字数も限界ですし、またご縁があればお話しましょう。でも、大丈夫ですよ、2500年間、お坊さんはいつもあなたと同じことで苦悩し、乗り越えてきたのですから。応援しています。
質問者からのお礼
大慈様
ご回答ありがとうございます。
寄り添っていただくお言葉を受けてこころがほぐれました。
徳の高い人、偉業を達成した方でもそうなのですね……。
はい、何となくわかってはいます。
きっとどれだけ、何かを得ようとも私が望む世界というのはたぶん訪れません。
それはそれこそ、幸せが頭のなかで描いた絵空事だからで、本当に人生に大満足し
三百六十五日幸せな人なんていないのでしょう。
ただせめて、もうすこし自分を駄目だなあと、だからそうなんだお前は、と思う瞬間を減らして
喜びを感じれる方向に持って行きたいです。
私が望む世界はありませんが、私が望む世界に近づくことは出来るはずだと思ってやってきました。
色々と一段落したので、夢を追いかけつつ、悩みながらも光るあるほうへ今度は夢だけでなく
自分も持っていけるよう努力しようと思います。
貴重なお時間を本当にありがとうございました。