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嫌な想像ばかりはたらかせてしまいます

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有り難し有り難し 9

私はものごころついた頃から意識するしないに関わらず空想や想像をすることがとても多いです。
なにもない空の状態から物を考えたりすることもあれば、どこかで見たり聞いたり読んだりした話をきっかけに広げることもあります。

ですがその内容を自分で上手くコントロールすることができません。ネガティブな性質なのか特別苦労したり悲しい目にあったりした訳でもないのに悲しい想像や悲惨なイメージを広げて気分がそちらにひっぱられがちです。
オカルトじみた迷信や予言さえ真に受けて考えを広げてしまいます。
正直杞憂だなと自分でも思うレベルです。
確かに悲しい気持ちになるし何もする気が起きなくなりますし、場合によってはストレスで体調に影響を及ぼしたりしますが原因が言ってもどうにもならないバカバカしいことだとわかっているので周りの人に話すこともできません。
今の実生活に特に不満はありません、世間的にも体感的にも十分に恵まれていると思います。だからこそ何かが失われる想像をしてしまうのかなとも考えます。
恵まれているのに勝手に一人で悲しい事を考えて気分を沈めるのは本当にナンセンスだとおもいます。どうしたら気分を明るい方にむけられるでしょうか。助言いただけたら嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思いの前にあるのは何?

あなたの得意の空想で空想してごらんなさい。
①あなたが空想を働かせる以前には何がありますか?
②あなたがパンにバターを塗る前はパンはどうなっていますか?
③東京に雪が振る前、融けたあとは何がありますか?
④焼き鳥のタレを塗る前の焼き鳥はどうですか?
⑤ウナギにタレを塗る前のウナギはどうですか?
あなたの得意の空想でそれを感じてごらんなさい。
空想では、感じられないのです。
もちろん空想がそこまで運んでくれることはあります。
ですが、空想では思いの前には至らない。
何故なら、空想する前を観よ、といっているから空想を果たらせながらそこは見えない。
あなたのような方のためにこそ坐禅はあります。
坐禅はその思いの前後の事実をみるのです。
思いが始まる前。思いが尽きた後。
そこに意を注いでみてください。
物事や出てきた思いに、思いを付加させない生活が禅です。坐禅会でお待ちしております。
あなたはまだ思いに使われていると思います。
あなたが思いを自由自在に使えるようになれるといいと思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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