両親を看取って燃え尽きた気がします
十数年に渡って両親の介護をしてきました。
父は9年前に亡くなり、母を今年5月の下旬に看取りました。
自分でも悔いのない介護を全うできたと思っています。
とても重要な学びを得たと思います。
でも、すべての手続が済んでから、やり遂げた思いが徐々に
辛さに変わってきています。多分これが燃えつき症候群だと
思うのですが…。
持病のせいもあって、体調が悪いのはもちろんですが、
やりたいことがあったはずなのに、どうしてもその気力が
湧いてきません。
誰かのためになることをすれば、最も心が満たされるのも
わかります。でもその力が出てきません。
家族ほぼ全員の生涯を看取ると時々どうしようもない
虚しさを覚えることもあります。
今後私はどういう余生を送るべきか?人のために生きる力を
取り戻すのにどうすればいいでしょうか?
ご教示いただけると幸いです。
もとより双極性障害が原因の希死念慮には悩まされているのですが、懸命に両親の介護関係で動いている時もふとした虚無感に悩まされています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人生を振り返りながら、あなた自身の人生へと、新たな道を。
そうですか。。。ご両親を、長年に渡って、介護し 看取られたのですね。十数年間。本当に、ありがとうございます。ご両親は、あなたに感謝なさっているでしょうね。人生の最期に、あなたがそばにいて。
介護生活も、いろんなことがあったのでしょうね。あなたの生活リズムは、ご両親の介護のためにあったのでしょうね。
思い残すことはないと納得出来ても、これからを誰のために生きたらいいのか、そんな想いから ときには虚しさがあるのでしょうね。
ご両親は心の中に、いつまでも あなたのそばで。今度は、あなた自身の人生と共に、生きたい、あなたの生きる道を見守りたいと思っていらっしゃるのではないでしょうか。
今すぐ、変わっていけるわけではありません。そんな簡単に、気持ちを切り替えるのは難しいでしょうけれど、あなた自身の道を探す旅に出ませんか。私というものを、大切に見ていきませんか。あなたの生活の中で、人との関わりに目を向けていきませんか。私のやりたいことはなんなのか。あなたの生きてきた道を、誰かに話せる 振り返れる 偲べる そんな出会いも、また前に進むために必要かも知れません。
私にメールをくださっても構いません。
今までの人生を振り返りながら、親と共にの人生から、あなた自身の人生へと、新たな道を見つけていきましょう。
故人と共に生きていくー故人との関係の再構築
こんばんは。亀山純史と申します。
アイルランド出身のジョージ・バーナード・ショーの名言のひとつに、「人生には二つの悲劇がある。一つは願いがかなわぬこと、もう一つはその願いがかなうこと。(There are two tragedies in life. One is to lose your heart’s desire. The other is to gain it.)」という文言があります。「その願いがかなうこと」とは、もしかしたら、燃え尽き症候群を指しているのかもしれないと、今回のご相談を読んで思いました。(今回のご相談での、その願いがかなうこととは、介護が全うされた、ということです。)
さて、燃え尽き症候群に限らず、生きていく上での支えとなる人の喪失によって、私たちは気力を失い、何もする気になれなくなるものです。このような症状からの回復には、あなたと故人との関係の再構築が必要だと思います。今までは、話をしたければいつでも話が出来た。顔を見たければ、いつでも行って見ることが出来た。そのような関係から、今度は、「目には見えないけれども、いつも浄土より私のことを見守ってくれている。」あるいは、「心の中で私と一緒に生き続けてくれている。」などと、故人との関係を作り直すことです。そうすることが、生きていく上での支えとなる人の喪失による無気力感からの回復に繋がっていくことでしょう。ただ、それには時間がかかるかもしれません。でも、焦らないことです。故人との関係が深ければ深いほど、その関係の再構築には時間を要すると思います。頭では「いつも私のことを見守ってくれている。」と思っても、それを自分の中にスーッと落とし込むには、時間が必要でしょう。人生の二つの悲劇。「願いがかなわぬこと」と「その願いがかなうこと」。しかし、そこから新たなる生き方が見いだされることは、悲劇ではないでしょう。
以上が私からの回答です。これからの人生が亡きご両親とともに歩まれることを願っております。
質問者からのお礼
「その願いがかなうことも悲劇」というのは深い言葉ですね。
燃え尽きないように、前もっていろいろ準備はしていたつもりでした。
死ぬまで好きな絵を描き続けたいというのも大きな目標ですし、すでに14年書き続けているブログに両親の思い出を書きつづることも供養かと考えております。一度本にまとめようかと思って試みたのですが、膨大すぎて諦めました。
介護関係や障害を持つ方に向けてやりたいこともあるのですが、いかんせん身体がついてきてくれなくて、2、3時間なにかをすると疲れてしばし横になる繰り返しです。
うちの両親は徳の高い人たちだったと思います。だから死後に偉大さを痛感することが増えました。でも介護のあいだに歳もとりましたし、肉体的にもガタがきていますし、昔と同様に動けると思うのが間違いなのですよね。
どの辺で妥協して優先順位をつけて動けるかが課題かもしれません。
人生に正解はないと思いますし、私はどこまでも納得解を求める人間なので、悩みやすいのかもしれません。
もしかすると、メールでご相談させていただくかもしれませんが、その時はどうぞよろしくお願い申し上げます。
含蓄のあるご助言をどうもありがとうございました (^_^) お二人とのご縁に感謝致します。
(両親の死後にとりわけこの「ご縁」を感じることが増えた気がします)
とても穏やかで安らかな両親の臨終に立ち会って確信したことがあります。人は誰でもこの世で果たすべき役割を持って生まれてきて、苦悩しながらもそれをやり遂げた時に、ご褒美のようにああいう安らかな死を迎えることができるのだろうな、ということです。
お役目はそれぞれに違って、ごく普通に家庭生活を送ることだという人もあるでしょうし、それこそ国や世界をどうこうするような大きなものを背負った方もあると思います。でもそれをきちんと果たして初めて今生の課題が完了したことになるのかな?と。それとあの世は画像編集ソフトの非表示になったレイヤーみたいだな、と感じています。見えないけれども、重なっていて確かに存在するという…。
うちの両親は思い残すことがないのか、夢にも出てきてくれませんが、私の中では今も変わらず生き続けています。私を形成する思考などの大きな遺産を受け取ったと感じます。一休みして充電できましたら、それをまた活かせるように道を探していきたいと思います。
どうもありがとうございました。