間違った教えの見分け方
前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。
(※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。)
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Q「慈悲」は人によって全く違うのか
あるお坊さんの問答にて1
「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。
別のお坊さんの問答にて2
「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。
どちらも実在するお坊さんの問答です。
慈悲とは何でしょうか。
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この回答で、
「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」
というご意見と
「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」
というご意見がありました。
双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。
しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。
非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。
間違っているのでしたら、どのように間違っているか。
どのように見分ければよいのでしょうか。
仏教に無知な私にも分かるように教えてください。
お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「方便」
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
なかなか「慈悲」というものを定量化させて議論することは難しくあります。
仏教では、「対機説法」、「善巧方便」という少し難しい言葉がございますが、相手の「機根」(これも難しい言葉になりますが・・相手の気質や能力、性格、仏教理解の度合い、仏教実践の度合いなどを総合的に考慮して)、相手の状態に応じて、仏教を説くというところとなります。
そのため、相手の状態を勘案することにより、僧侶方も配慮して教えを説くというところがあるゆえに、人それぞれに対して説く内容が異なってくるという場合があります。
上記二例の問答においても、やはり、説く相手のことを慮ってということになるため、実際に、その説かれた相手がどのような状態にて、その質問をされたか、前後の文脈や、様々な二者間の外面・内面それぞれの事情をも考えないといけないため、一概には、合っているとも、間違ってているとも、第三者からは、捉えきれないところがあるのは、やむを得ないものとなって参ります。
もちろん、方便の教えであるとは言え、仏教の教えには、外教とは明確に異なるものもございます。例えば、代表的には「空」の思想や「縁起」の思想などであります。
釈尊が説かれた教えには、真理としての教え(勝義諦)と方便としての教え(世俗諦)があるため、一つの仏教における問答でも、方便として説かれているものであるのか、あるいは、真理として説かれているものであるのか、その見極めも大切なことになって参ります。
また、更には、方便を扱う(あるいは真理を扱う)僧侶の資質にも左右されてくるところもあります。
ですから、本来は、その僧侶の状況もしかるべくに勘案しなければならないため、一つの文章からでは容易には推し量れないところでもございます。
そのような事情もありますことを少し理解を頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
慈悲
拝読させて頂きました。
慈悲とは
仏様が全てのものを慈しみ救おうとなさるお心であり、悩み悲しみ苦しむものの心に寄り添ってくださるお心です。
仏様は菩薩様として長い長い修行の末に全てのものを救いたいという大慈悲の願いを立ててその願いが成就して仏様となられ、今までもこれからも全てのものを救い摂って下さっています。
そして全てのものを仏様のお浄土にお導きなさってくださり、仏様から真理を教えて頂いて心から円満に安心して仏様の智慧を授けて頂いて皆仏となっていくことができるのです。つまり全てのものを成仏させて頂けるのです。
私達はほんに些細な儚い愚かな存在ですからその遠大な仏様の大慈悲は想像してもなかなかわかりません。その無限に広がる仏様の大慈悲に包まれて救われていく存在です。
仏様の慈悲はなかなか実感として気がつかないもの、目には見えないものですから、そうですね…、太陽の光や空気のようなものかもしれませんからなかなか実感として湧かないですよね…。
とはいえそのような仏様の慈悲の働きによって救われていく私達がいるのです。
そのような仏様の慈悲による救いによって私達のご先祖様もあまたも生き物も救われていっているのです。
とてもとても仏様には全くもって及びませんけれども、私達もそのような仏様の慈悲を見習いほんのわずかでも仏道修行に沿って慈悲のこころをもって人へ施すことができればと思います。
一人一人がお互いに慈しみあい助け合い、寄り添いながら生きていくことができるならばほんの僅かずつでもこの世は変わっていくでしょう。
あなたにも仏様に慈悲や智慧がもたらされて心穏やかに安らかに救われていかれます様にと、そして人への慈しみの心をもって施していかれ、心に本当の平安がもたらされます様にと心から仏様にお祈りさせて頂きます。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ 至心合掌
相手の気持ちを考え、思いやりの心で接することが慈悲です
「慈悲」とは「慈」(思いやりの心)と「悲」(人の痛みがわかること)のふたつに分解できます。相手の気持ちを考え、思いやりの心で接することが慈悲です。逆にいえばそうでないもの(怒りを秘めた発言や自分の利益のためのアドバイスなど)は慈悲ではありません。
ですから、お坊さんたちは、質問の内容によって、相手の気持ちをくみ、どのように声をかけたら相手が正しい道(悟りの方向)に進むかを考えて、その人用に仏教の教え(今回は慈悲の発動のさせ方ですね)をカスタマイズして答えて下さっていると思います(待機説法)。でもその答えもその時の質問者さんに合うかどうかわかりません。だからhasunohaは、たくさんのお坊さんが様々な観点から答えを入れるようになっています。その中のひとつでも質問者さんの心に響けばいいかな、と思っています。
慈悲を知るのに良いたとえ話があるので載せておきます。
正法眼蔵随聞記(巻一)に、鹿を棒で打ち追い払った僧の話がでてきます。
昔、恵心僧都という僧が、ある日庭に鹿がやってきて草を食べているのを見て、人に命じて打ち追い払わせた。その時、それを見ていた人が「師には慈悲の心がないように思われます。庭の草を惜しんで動物を苦しませるとは...」と尋ねると、僧都は「私がもし鹿を打たなければ、この鹿は人間に慣れてしまって、悪人に近づいたときに必ず殺されてしまうだろう。だから打ったのだ」と答えた。
鹿を打つことは慈悲のないように見えるだろうが、心の中に慈悲の思いがあふれていたのです。
と、こんな話です。
※恵心僧都 「往生要集」の著者として知られる源信(910~1017)の別称
厳しい言葉も、実は優しさから来ていると考えてください。
質問者からのお礼
どうも、ありがとうございます。
光禪 さま
「相手の気持ちを考え、思いやりの心で接することが慈悲」私もそんなイメージを持っていたんですが、例の言葉・文脈では何か違うなと感じました。「優し気なことが、優しいとは限らないのである」という佐野洋子の言葉があるんですが、この件に関しては、そんな話ではないんじゃなかろうかと私は思いました。
川口 英俊 さま
後で説明するのも何なんですが、例の会話は全く面識のない二人が初めてネット上で行ったものです。相談者の情報も年齢・性別以外ほとんど書いてません。その状況で、あのような言葉を使うことが正しいと思えるか。使うにしても、最終手段ではないのか。どんな素敵な効果があって、あの言葉を選ぶのか。何故、あんな表現でなくてはならなかったのか。それが私には不思議なんです。
Kousyo Kuuyo Azuma さま
ご心配くださったんですね。申し訳ない事です。
「一人一人がお互いに慈しみあい助け合い、寄り添いながら生きていくことができるならば…」私もそれは日々考えていて、自分なりに出来ることを模索しています。それだけに、様々な立場の人の気持ちを理解したいと思っているんですが、今回の件はさっぱり理解できませんでした。むしろ、「駄目なことは、駄目だ」とちゃんと言ってくれる人が、この人には居なかったんだろうか。と、色々考えて憤ったというのが正直なところです。
慈悲について、私に沿うように仰って下さった方もおられるかもしれませんが、お坊さんによっても捉え方が違うというのが現実なんでしょうか。
仏教を学ぶ人は、混乱するんじゃないですか。結構、多いですよね。慈悲についての質問…