怒る
先日怒るべきことと怒るべきでないことについて質問しました。
ありがとうございました。
その回答はいかなる時も怒るべきではないということでしたが、それはどのような理由からでしょうか?
怒らないせいで苦が増すことも多いと思うのですが。
例えば国民を苦しめる政治とか虐待とか...
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お手数をお掛けいたしました
お釈迦さまは侵攻中の軍を三度まで説得して止めました。でも、三度で諦めました。お釈迦さまは知っていたのです。攻める側も、攻められる側も、お互いに相手を怒らせる悪循環になり過ぎてしまったと。
そこでお釈迦さまは考えました。怒りの悪循環が生まれる前に、怒りの元栓を閉めてしまわないといけない。自分も怒りを離れて苦の原因を止める。被害者も怒りを離れて救われる。加害者もそもそも怒りを起こさないで理不尽をしない。お釈迦さまは、誰が正しく誰が間違っているかとは別のベクトルとして、全方向的に救いを達成しようとしたわけです。
そのため仏教に義憤は相応しくありません。世のためにはそれはそれで避けられないのですが、「仏法と王法は車の両輪の如し」という言葉があるように、それぞれ一長一短があり、どちらも採用するから補完できるという位置付けです。ちょうど病気に対する方法に手術や投薬といった西洋医学と、体質改善や食事療法といった東洋医学があるように。王法は前者、仏教は後者です。色即是空のたとえは生活習慣的な心の有り様の話です。
では元栓を閉めるとはどういうことか。面白いのが、お釈迦さまは弟子同士が戒律を破った破っていないで喧嘩をしているのを見て「他人の非に目を付けていないで自分の修行に専念しろ!」と叱っています。怒りは結局、自分に突き刺さるから。それがどんな義憤であろうと、怒っている限り心の平穏とはかけ離れていますでしょう?
相手を責め立てて、改善させました。それで社会は『良く』なるかもしれません。でも結局、怒りに飲まれて糾弾癖のついた心は次の不当を探して止まないでしょう。
すると遂に人々は満足することなく、その社会を良いと感じることはありません。だから「不当を許さない」ということと「不当を無くせなくても生きていく」という矛盾することを、どこかで矛盾なく同時に達成しないと人は幸せになれないのです。
>もろもろの
あしき業(わざ)をなすとも
おろかの人は
ふかくさとらず
まこと
智すくなきものは
火に焼(原文では別字)かるるごとく
おのれの業(わざ)により
自らくるしむなり
(友松円諦訳『法句経』第136)
お釈迦さまも理不尽に怒らざるを得なかったのが伝わってきます。いい加減にしろと。でも、それでも、怒りでは救われないと自分に言い聞かせ続け、伝え続けたのですよ。
怒らなくても行動は可能
怒りとは、嫌な気分になること全部をいいます。
悲しみや嫉妬やケチも怒りです。
同じ物を見ても、ある人はすぐ怒る、別の人はなんとも思わないとします。
すぐ怒る人はすぐに嫌な気分になるわけだから、人生のストレスが多く、人生は快適ではないでしょう。
ハンバーガーを食べて「こんなジャンクフード食わせやがって!」としか思えない人はかわいそうでしょう。
怒っているときは不快です。怒りが冷めたら不快も減ります。
怒らない場合で苦を増すことはあります。
たとえば、欲や愚かさの煩悩があるときは、怒ってなくても苦しみの原因になります。
しかし、怒りは必要ではありません。
歯みがきするとき、いちいちバイ菌に怒って攻撃してはいないでしょう。
それでも歯みがきはできます。
悪い政治や犯罪に対しては冷静にツッコミ入れて適切に対処すればよいのです。
こぼれたジュースを静かに拭くときのように。
青に変わった信号を見て一歩出すときのように。
質問者からのお礼
願誉浄史様
再びご返事ありがとうございます。
難しいけどやってみます。
大慈様
再びご返事ありがとうございます。
ようするに、ほどほどにしとかないと永遠に怒ることになるからやめとけってことですかね